魯粛は呉(222年~280年)の将軍です。
文官というイメージが付きますが、周瑜の亡き後に軍の責任者になっているので実際は将軍が正しいと思います。
この魯粛に関してみんなの持つイメージは、外交では諸葛亮からはカモにされて、味方の周瑜からは馬鹿にされる姿でしょう。しかし、それはとんだ見当違いです。
全て『三国志演義』が作り出した虚構のイメージです。
そこで今回は史実の魯粛の姿から、彼の知力が並ではないことを解説いたします。
天下二分の計
初対面の魯粛は孫権にある提案をしました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「漢の天下は終わっています。この江南(呉)を拠点を確保して天下を目指しなさい」
要するに、これは諸葛亮の天下三分の計と同じ発想力です。ただし、呉と後漢(25年~220年)で争うという違いがあるので、正しくは「天下二分の計」です。
この発想力は呉の重臣の張昭は眉をひそめました。だが、孫権は発想力が他のみんなと違う魯粛を称賛したという話でした。
劉備との同盟締結
建安13年(208年)に荊州の長官の劉表が亡くなりました。後を継いだ劉琮は攻め込んできた曹操に、あっさりと降伏しました。
弱ったのは当時、劉表のもとにいた劉備でした。急いで曹操から逃げた劉備でしたが、長坂で追いつかれて敗北しました。
曹操が次の標的にしたのは呉でした。一気に呉を併呑して天下統一をするつもりでした。
呉では張昭を筆頭に降伏論が出ていました。ところが、この降伏論を覆すために立ち上がったのが魯粛でした。魯粛が目をつけたのは、敗残の劉備です。
魯粛は諸葛亮の兄の諸葛瑾と知り合いなので、そのルートから交渉が行われました。
交渉の結果、孫権と劉備の同盟は締結されて、曹操は赤壁で破りました。
「赤壁の戦い」は周瑜と諸葛亮が盛り上げ役として有名です。しかしそれらは『三国志演義』の影響によるものです。
実際は劉備との交渉に当たった魯粛が最大の功績者といっても過言ではありません。
荊州借用問題
赤壁の戦いの後に、劉備と孫権の間で荊州の土地を巡る争いが始まります。荊州は重要な地点です。その荊州の中で最も重要な場所は北西の「南郡」でした。
建安14年(209年)に周瑜は南郡を占領して、一部を劉備に与えました。ところが劉備は兵力も増えて経営が難しくなってきたので、もう少し土地を寄越せと言ってきました。
周瑜は劉備のワガママな態度に大反対でした。
ところが、劉備の意見に賛成したのが魯粛でした。
でも、魯粛は周瑜反対派でも劉備賛成派でもありません。
魯粛なりの意見を持っています。
魯粛は劉備を南郡に配置することで、曹操に対しての備えにしたかったのです。
しかし、周瑜の発言力が大きいので周瑜存命の間は南郡が劉備に借用されることはありませんでした。
一触即発
建安15年(210年)に周瑜が亡くなりました。周瑜が亡くなったので、魯粛の主張通りに南郡は劉備に与えられました。
ところが劉備は前年に勝手に兵を動かして、南郡とは違う土地を奪取していました。
魯粛は一応、黙認していました。いずれは返還(奪還)の意思があったからです。さて、問題はさらに複雑になります。
建安19年(214年)に劉備は益州を占領したので、荊州からいなくなりました。
孫権は返還の交渉に出ました。
この時期、荊州の統治を行っていたのは関羽でした。ところが彼は政治家でも外交官でもありません。呉が派遣した役人を次々と叩き出しました。
激怒した孫権は呂蒙の率いる軍を派遣しました。一方、劉備も関羽と合流して孫権を迎え撃つことにしました。もはや戦争が避けられない状況になっていました。
単刀会と魯粛の勝利
ところが、そうも行きません。孫権と劉備が衝突して喜ぶのは曹操です。ここはお互いに矛を収めることにしました。そのため、司令官同士の話し合いをすることにしました。
これが有名な「単刀会」です。
『三国志演義』では魯粛が関羽から、小馬鹿にされて終了する話でしたが、実際は違います。
実際は魯粛自身が、「荊州を返しなさい」と迫ったそうです。
結局、魯粛に圧倒されたのか関羽は黙ってしまい、関羽の部下は負け惜しみの発言だけして帰ったようです。とにかく、全面戦争だけは避けることに成功しました。魯粛の大勝利でした。
三国志ライター晃の独り言 後日談
以上、魯粛が人並み外れた人物であることが分かると思います。決して、小説やマンガのようにお人よしのおバカなオジサンじゃないのです。
最後にある話をします。
後年、孫権はあることを回想していました。
「魯粛が荊州を貸したことは、彼の唯一の失敗だった」
後世において、魯粛の評価が低いのは、この孫権の回想が原因のようです。しかし、魯粛には魯粛の考えがあったのです。
彼の行動を全てダメと決めてはいけません。
※参考
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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