『三国志』の軍師といえば蜀の天才軍師・諸葛亮の名が筆頭に挙げられますが、呉には赤壁の戦いで名を馳せる周瑜がいましたし、魏には曹操が最も愛したといわれる郭嘉がありました。
『三国志演義』ではどう見ても諸葛亮が最高の軍師として描かれていますが、実際には他の2人だって主君への貢献度では諸葛亮に負けてはいません。そして、3人は同じ軍師でありながら、三人三様、それぞれ素敵な魅力を持っていました。さて、皆さんはどの軍師がお好みでしょうか?さっそく3人の軍師たちの素顔に迫ってみましょう。
イケメンミュージシャン・周瑜
まずご紹介したいのが呉の重臣・周瑜。小覇王・孫策とは幼馴染で孫策が袁術のもとでくすぶっていたときにも孫策の助けにならんと奔走しました。知恵がある上に美しくて若かった周瑜は人々に「美周郎」と称えられたそうです。
しかし、ある日小覇王・孫策はかつて粛清した許貢の食客3人に襲われ、その食客が放った矢の毒に侵されて亡くなってしまいます。そのため、孫策に代わって孫権が呉の君主となったわけですが、それまで小覇王・孫策に付き従ってきた将軍たちは19才の孫権をボンボンの青二才であると軽んじます。
周瑜が連れてきた魯粛でさえも呉から離れようかと考え始めました。そんな中で周瑜は呉に留まって孫権を補佐することを強く決意し、孫権に対して臣下としての礼を尽くして他の臣下たちに規範を示し、また、呉を去ろうとする魯粛に孫権の資質の高さを語って引き留めました。その後、呉が魏に呑み込まれそうになった際に魯粛と共に赤壁の戦いで曹操を破って危機を乗り切った周瑜は呉の名軍師としてその名を天下に轟かせます。
呉に尽くしに尽くした周瑜ですが、実はミュージシャンとしての一面もあるのだとか。周瑜は琴や笛を持たせれば美しい音色を奏で、筆を持たせれば美しい詩文を編んだといいます。しかも、酒を飲んでベロンベロンに酔っていても演奏に間違いがあるとすぐに気づいてその間違いを指摘したのだそうです。音楽にも精通した美青年・周瑜の姿に呉の女性たちは色めき立ったことでしょう。
チョイ悪要素がスパイス・郭嘉
曹操に「郭嘉だけが私の真意を理解している」と言わしめた魏の軍師・郭嘉は、その昔は乱世を疎んじてひっそりと暮らしていました。郭嘉は自らが認めた知識人や英傑とだけやりとりをして自らの使えるべき主君を探していたのでした。
ある日、噂によく聞く袁紹とかいう人物が気になった郭嘉は思い切って袁紹に会いに行きますが、その人間性にガッカリ。袁紹の配下にいた昔馴染みに対して袁紹の欠点を挙げ連ねて忠告した後にさっさと帰っていったのでした。
その後はまた同じように限られた人とだけ交流しながら主君を探していたのですが、同郷の荀彧から声が掛かります。その時荀彧は曹操に仕えており、智謀家を求める曹操に郭嘉を推薦したのです。さっそく曹操に会いに行ってみたところ、曹操は袁紹とは比べ物にならない大人物であるということを見抜きます。そして曹操もまた、郭嘉こそが大業を成し遂げさせてくれる人物だと喜んだのでした。
その後は期待通りの働きを見せた郭嘉。臣下同士で意見が分かれた際にも、郭嘉の言葉を採用すると全てのことがうまくいきました。しかし、この郭嘉には少し困ったところがあったようです。
郭嘉は度々人の上に立っているという自覚を欠く行動をしていたらしく、同僚の陳羣から厳しく責め立てられたこともありました。ところが当の本人はヘラヘラとして反省の色はなく、おまけに曹操までもが「まぁ郭嘉はさ…ほら…ね?」と取り合わず…。他の軍師には見られないチョイ悪要素が世の女子たちの心をくすぐります。
実はちょっと不器用なところがギャップ萌え・諸葛亮
『三国志演義』では特にその智謀を持って大活躍をして見せる蜀の諸葛亮は完全無欠のスーパーマンのようですよね。何でも涼しい顔でヒョイヒョイこなしているイメージの強い諸葛亮ですが、ちょっと不器用なところもあったようですよ。
仕官するまでは梁父吟を口ずさみながら野良仕事をしていた諸葛亮も劉備に仕えてからは休む間もなく働きました。特に蜀を征服して劉備が皇帝になってからは大忙し。仕事もどんどん増えていったのです。
目も回るような忙しさにてんてこ舞いだった諸葛亮ですが、部下・楊顒に諭されます。「丞相は今帳簿の点検をなさっていますが、それはあなたがするべき仕事ではありません。そのように一人で仕事を抱え込んで終日汗を流しておられますが、それは働きすぎではありませんか。」この言葉にハッとさせられた諸葛亮は楊顒に感謝したそうです。
しかしそれでも頑張りすぎてしまう癖は治らず…。何でもできるけれど、仕事の分配が苦手だった諸葛亮のこのギャップは世の婦女子の母性本能をくすぐること間違いなし?
三国志ライターchopsticksの独り言
いずれも個性豊かなイケメン軍師たち、皆さんは誰がお好みですか?
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