今回のお題は末期の蜀、そしてその地で必死に踏ん張り続けていた武将、姜維。姜維と言えばやはり北伐、この姜維の北伐に関しては様々な意見が現代においても挙げられています。
果たして姜維の北伐は失敗だったのか?成功だったのか?更にその成功か失敗かを考える上で大切な、姜維の北伐作戦に付いて詳しく見ていきつつ、成功であるならばどこが、失敗であるならばどこが、これらの要因についても見ていきましょう。
この記事の目次
諸葛亮死後、北伐の始まり
まずいきなりですが、諸葛亮の亡くなった直後から話をスタートさせますね。234年の春、2月に諸葛亮による第五次北伐が行われました。この最中、諸葛亮は命を落とすことになります。この後、姜維は右監軍、輔漢将軍を授けられ、諸軍を指揮、統率する事を許されることになります。
因みに諸葛亮の後継者として選ばれたのは諸葛亮自身に「社稷之器(国家を担う器である)」と評価された蔣琬という武将です。蔣エン、何故かゲームとかではあまり名前が挙げられないので知らなかった方はぜひ覚えておいて下さい。
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ジワジワと感じられる蜀の不安点、人員の少なさ
この後、楊儀の失脚を経て235年に蔣琬は大将軍になるのですが、ここで一つ問題が。
蜀では諸葛亮の死後、丞相の職に人が置かれることは有りませんでした。しかしこの蔣エン、軍事統帥の最高位である大将軍、大司馬、行政実務の最高位である録尚書事、地方行政の最高位である益州刺史を全て兼務していたとされています。
これをほぼ諸葛亮と同じ権力を握っていたと見るか、それともほぼ諸葛亮と同じくらい一人で働いていたと見るか……費禕伝によると、国の恩賞、刑罰は全て漢中にいる蔣エンにまず回されてから行われていたというので、どちらかというと働かされ過ぎな気がしますが。ここから、蜀の背負った問題が少し浮き彫りになっていると思いますね。
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蔣エン、費禕と姜維に託されていく未来
蔣エンにより姜維は涼州刺史なり北方に当たることになります。また、蔣エンは嘗ての諸葛亮が北伐を失敗したことに対しての対策を幾つも練った上で計画を立てていくのですが、この頃から既に彼の体は病に蝕まれており、同時に反対も多く、246年に亡くなりました。
その後を託されたのは費禕でしたが、253年に費禕は刺殺されてしまいます。こうして二人を失って、軍権は姜維が握ることとなり、姜維の北伐が開始されます。
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姜維の北伐、最大の成功ポイント……?
この北伐、殆ど失敗のような印象を持たれている方もいるかと思いますが、この姜維の北伐、当初は成功していました。狄道県を始めとした三県を制圧し、魏の武将である徐質を討ち取っています。
この翌年には夏侯覇と共に王経を大破しました。この際に打ち破った王経軍の死者は数万人に及んだというのですから、かなりの戦果と言えるでしょう。この功績によって、姜維は大将軍に昇進しています。
ただ、この時点での勝利自体は蜀の撤退により、魏軍はかなりの被害を出したけれども「魏の勝利」という結果に落ち着いています。またこの勝利に付いては王経軍を打ち破ったのも「偶然鉢合わせて」の勝利となり、計略を用いたというよりは軍部の強さのみで押し通したと言って良いでしょう。計画された勝利ではなく、偶然の余地が大きい勝利と成功、これが後に繋がっていきます。
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【北伐の真実に迫る】
やってきた大きな敗退、先人である諸葛亮に倣うが
「姜維は大きく勝利した。であるから、すぐにまた攻めてくる」
魏の鄧艾は戦への備えを怠らず、警戒をしていたこともあり、段谷で大きく大敗してしまいます。
この際に姜維は自らを降格することで責任を取る形にしました。この方法は諸葛亮も嘗て取った方法ですね。
しかしその後、257年に諸葛誕の起こした乱に乗じる形で魏に攻め込み、翌年に撤退、その際に大将軍に復帰したこともあって、段々と国内で北伐への批判が強まっていってしまうことになりました。この年には最早数少ない北伐賛成(容認)派であった、尚書令・陳祗も亡くなっています。そして、あの黄皓の専横が始まっていくのです……。
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姜維の北伐に関して「最大の失敗ポイント」
ここで姜維の北伐に関して、筆者が考える最大の失敗ポイント。それは「味方がいない」ことにつきるのではないかと思います。姜維が国を留守にして北伐を繰り返すなら、国内で姜維の行動を後押ししてくれる人間が必要ですね。
もっと言うと、繰り返す北伐によって疲弊する国力をどうにかできるだけの力も必要です。個人的な意見ですが、姜維は軍人的な面では優れていますが、政治的な面ではからきしであると思われます。
そもそもが魏の人間であるのですから、まずは自分の足固めをしっかりすること、これが大事でした。
そこを行くと夏侯覇はまだ蜀の国の中核と縁者になるので、その点はある意味クリアしていたのですが……その夏侯覇も失い、蔣エン、費イとどんどん見方を失っていった姜維では、まずそもそもの後ろ盾がなく、大勝利を重ねる意外に北伐を成功させる道筋は無かったのではないかと思います。
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既にして爪痕が大き過ぎた、姜維が背負った蜀
嘗て、費禕は姜維に
「我々の力は諸葛亮に遥かに及ばない。その丞相(諸葛亮)でさえ中原を定める事が出来なかったのだ。今は内政に力を注ぎ、外征は人材の育成を待ってからにすべきではないか」
と言ったとされています。事実、この時代の蜀にはまず人材が皆無です。政治も、軍事も、任せられるだけの人間がいないのです。この「人間がいない」には「その能力で蜀を支えて魏に対抗するだけの力を持った」という条件が付くので、尚のこと。ただし人材の育成と言うのは一日二日では済みません、まごまごしていては魏に飲み込まれるだけ……そういった焦りもまた、姜維にはあったのではないでしょうか。
三国志の注釈によると、姜維は母親に「蜀で出世するので魏には帰りません」という手紙を送ったとされています。それを踏まえると、人材がいないからこそ姜維は魏よりも蜀で身を立てるべきだと判断した可能性もありますが……そもそもとして、数代前からかなり積み状態にあった蜀。だからこそ、それをひっくり返すことができれば……そういう焦りが、もしかしたら姜維の北伐の敗因だったのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
この時代、まだまだ人材が眠っている魏に比べ、蜀はほぼ人材も積みかけています。もっと以前の話になりますが、諸葛亮が魏に行った徐庶があまり地位が高くないと聞いて「魏にはそんなに人材がいるのか」と言ったとされているので、生半可な能力では花開けなかった可能性は高かったでしょう。もしかしたらそこに、姜維の蜀に賭けた夢、野心のようなものがあったのかもしれません。
あくまで忠義から蜀に尽くした姜維も良いですが、そこに賭けてみた姜維というのもまた、姜維の新たな一面ではないかと思います。どぼん。
参考:蜀書姜維伝 費イ伝 雑記
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