諸葛誕はなぜ魏への反乱を起こしたのか?諸葛誕の乱の理由に迫る

2022年10月11日


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舌戦で煽るのがうまい諸葛亮孔明

 

(しょく)は龍を手に入れた、()は虎を手に入れた、そして()は狗を手に入れた。龍とは諸葛亮(しょうかつりょう)、虎とは諸葛瑾(しょかつきん)、そして狗とは諸葛誕(しょかつたん)のことを意味します。意味合いとしては別に諸葛誕を卑下しているのではなく、狗のように功を立てた忠義心のある人物、という評価と言われていますね。

 

諸葛一族

 

さてその諸葛誕は反乱を起こして討伐されてしまうのですが。この反乱の理由について、今回は穿って考えてみたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛公休

諸葛誕

 

諸葛誕、字は公休。呉の諸葛瑾、蜀の諸葛亮とは従弟に当たる人物で、諸葛誕もまた優秀な人物であったと言われています。そして二人とはまた違い、彼が仕官したのは魏でした。

 

夏侯玄

 

そこで彼は夏侯玄(かこうげん)らと共に「四聡八達」という、四人の聡明な人物と八人の達人という意味の呼び名で呼ばれていました。ただし時の皇帝曹叡(そうえい)からはその評価を「画餅(がべい)」とされ、遠ざけられました。

 

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曹叡没後

曹爽

 

さて諸葛誕は曹叡からは冷遇されていましたが、没後には復帰。これには当時の魏の実権を握ったのが曹爽(そうそう)だった、ということも影響していたと思われます。

 

司馬懿

 

しかしその曹爽が司馬懿(しばい)と権力争いにて破れ、曹爽と親戚関係であった夏侯玄は失脚していくことになりますが、その中でも司馬氏に諸葛誕は重用されていくことになります。

 

降伏した姜維をもてなす鍾会

 

因みに姜維(きょうい)が降伏した時に鍾会(しょうかい)が「諸葛誕や夏侯玄でも彼以上ではあるまい」と姜維を評価したとされることから、諸葛誕、そして夏侯玄は当時の魏では名士の代表格であったと思われます。

 

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重用されている、が

諸葛誕と仲違いを起こし殺害される文欽

 

諸葛誕の娘は司馬懿の四男、司馬チュウに嫁いでいるなどして、何気に縁戚関係を結んでいた諸葛誕。その後は王淩(おうりょう)の討伐を行ったり、毌丘倹(かんきゅうけん)文欽(ぶんきん)が反乱を抑えるなど、順当に活躍を重ねました。

 

諸葛恪の栄光と破滅04 諸葛恪

 

また興味深いのが呉の虎の子、諸葛恪(しょかつかく)との戦い。ここでは諸葛誕は敗北、そして諸葛恪は大勝利してしまうことになります。これが後の諸葛恪の失脚に繋がっていってしまうなどは、もしかしたらこの時点では誰も……

 

諸葛恪と孫峻

 

「家を大きくするのはあの子ですが、家を潰してしまうのもあの子でしょう」……父親の諸葛瑾は、ある程度予測していたかもしれませんが、まあそれは別のお話。

 

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疑心暗鬼を生ず

諸葛誕

 

司馬氏にも重用されていた諸葛誕ですが、内心は穏やかではなかったようです。夏侯玄の死後、いずれ自分も討伐した王淩や毌丘倹のように司馬氏により滅ぼされるのでは、と疑いを持つようになりました。

 

 

このため諸葛誕は私兵を募るようになり、この動向を伺った司馬昭(しばしょう)は早めに謀反を起こさせるように画策します。そして257年、諸葛誕は司空(しくう)に任じられることになり、洛陽(らくよう)へ召還されます。これを怪しんだ諸葛誕は遂に反乱を起こすこととなるのでした。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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