今回は三国志の英雄の一人……というには、少し時代がずれていますが。杜預と言う人物をご紹介しようと思います。
杜預は三国時代末期から西晋における人物ですが、その生涯と死因を見ていくことでよりこの時代を深く知ることができる人物です。実はあの有名な言葉の由来ともなった人物、杜預。彼がどのような立場で、どう生きて来たか、それに触れてみて下さい。
この記事の目次
杜預の歴史分権における記録から生涯、主な功績を読み取る
杜預は中国の三国時代から西晋時代における政治家です。しかし同時に武将としてもかなりの活躍をして、国へと貢献しています。その出自は祖父が魏の尚書僕射、父が幽州刺史という名門であり、妻は高陸公主……司馬懿の娘となり、杜預は司馬懿の娘婿となります。
まあ、父親に付いては後に再度触れていきましょう。
そんな杜預自身の功績も高く賈充らとともに律令の制定に与る、度支尚書に任命されての新兵器を開発、常平倉の設置や穀物の買取、塩の定期輸送で農政を安定させての、その上で税制を整え、これによる内外五十余条の地域を救済など、内政における杜預の功績は計り知れません。
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杜預の活躍とその時代背景と「破竹の勢い」
263年、司馬昭は蜀を滅ぼし、264年に司馬一族の功績を称え、父の司馬懿を晋の宣王、兄の司馬師が景王に封じます。これによってほぼ魏の朝廷を掌握した司馬昭ですが、翌年265年に病没し、その子の司馬炎が後継者となり、魏からの禅譲を受けて晋の皇帝として晋王朝が建てられました。奇しくも杜預が活躍し始める時代は、既に三国の蜀も魏もなく、残るは呉のみと言う状況でした。
278年、杜預は鎮南将軍・都督荊州諸軍事となり、呉攻めの用意を始めます。司馬炎は年明けに呉を攻めるつもりでしたが、今を逃すべきではないという杜預の上奏文、そしてそれが届いた時に傍にいた張華の後押しもあり、280年正月に杜預は総司令官として呉攻めを開始しました。杜預の率いる軍の勢いは凄まじく、次々に城を落として建業の間近に迫ります。
この際に軍議では「冬明けを待つべきでは」という言葉が出るものの、杜預は「今、兵威は盛んであり、これは例えるなら竹を割くようなもの。竹を割るように数節まで刀を入れればあとは手を使うだけで良い」と答え、その勢いのまま見事、呉を打ち倒すことに成功しました。この事から「破竹の勢い」という故事成語が生まれたのです。
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杜預と他の「武将」との比較、実は大きな誤解があった?
さて、政治に軍事に故事成語に……と様々な分野に関わってきているのが歴史から読み取れる杜預ですが、これだけ見ると欠点がないスーパー人物では……?とも思われることでしょう。もうこいつ一人でいいんじゃ……なんて言われそうな杜預、以前の三国志ゲームなどでは、正にパラメータに欠点がないハイパー武将でした。
武力知力政治統率……と他の武将を圧倒する能力値だったのですが、杜預自身の逸話や話が広まるにつて、これらも収まってくるようになります。実は軍略の誉れが高い杜預、彼自身は馬に乗ることができず、弓射も不得意だったというのです。言うなれば安楽椅子探偵(少し違うかな?)のような存在だったという訳ですね!この辺りは杜預自身の知名度が高まるごとに改められていったようですね。因みに取り入れられることはなかったものの、杜預の官吏の貶降と昇進についての意見に
「毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。六年して、最も優の多い者は抜擢し、劣ばかりならクビにするのです。優が多めで劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多めで優が少ないものは左遷します」
これは遠方の地の人物評価について、当時は情報は主に文章で知るものであり、その文章が偽造や捏造によって飾り立てられること、またこれらを取り締まろうとすると法令が煩雑化すること、これらへの対策としてあくまで簡略化、効率化を図ろうとするもの。ここから杜預の性格が見えてくるのではないでしょうか。このように「敢えて簡略化すること」「効率化を図ること」これらは現代にも繋がる思考回路であると思いますね。
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杜預と羊祜との関係と
そんな杜預ですが、杜預より以前は呉方面を対応していた人物には羊祜がいました。言わずとしれた三国志末期から晋時代の人物です。羊祜もまたその非凡な才覚で有名な人物ですが、実は杜預とは血の繋がりはないものの縁戚関係にあります。
羊祜の同母姉は羊徽瑜という司馬師の後妻であり、杜預自身は司馬師から見ると義弟になります。このように、血の関係はないものの、司馬一族を通して杜預と羊祜には面積があったとも考えられるでしょう。そんな羊祜は、呉方面を任せられてきました。275年から280年の間には本格的に呉征伐を開始しようとしていたのですが、この上奏は受け入れられず、反対されて不許可とされました。
このことを「今を置いていつ事を起こすのか」と羊祜は嘆き、その後、羊祜は失意のまま亡くなります。この際に羊祜は後任に杜預を推挙しました。後任を任された杜預が「破竹の勢い」で呉を攻め落としたというのは、中々にロマンを感じますね。
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杜預の健康状態と死因は……?
その後、司隷校尉に任じられた杜預ですが、63歳で死去したと言います。この際に司馬炎によって、征南大将軍・開府儀同三司を追贈され、「成」と諡されました。その健康状態や死因までは詳しく記録されてはいませんが、一つ気になる記録が。
280年の呉討伐の最中、江陵の守備側が、杜預の頸に瘤があったことから、犬の頸に瘤に見立てた瓢を括り付けたり、木の瘤を「杜預頸」と称してからかったりしました。これに怒ったのか杜預は城を攻め落とすと、その住民を皆殺しにしたという……中々強烈です。
この瘤が頸部、つまり首にできていた……現代でも頸部の瘤は腫瘍としてかなり危険視されており、早期の発見と医療機関の受診を進められています。これにはリンパの腫れも原因とも考えられており良性にしろ悪性にしろ杜預はこの一件から何らかの病気を患っていたのでは……という推測もできますね。が、ここでは敢えて、敢えて!杜預は暗殺された可能性について考えていきたいと思います。
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杜預の死は暗殺の可能性が!?その謎に迫る
話は変わりますが杜預は後世に名を残すことを願っていたと言います。実際に杜預は国に大きく貢献する働きをしてその名も残りましたが、その一方で大功を立てた身として、周囲に気をつけなければならなかったそうで。しばしば洛中の貴族要人を饗応し「彼らの恨みをかわないように」と言っていたそうです。
つまり杜預は己自身の功績と立場、そして危ういバランスに付いては良く理解していたと言えます。しかしそもそも司馬一族とも関係がある杜預、彼にはどうして暗殺の可能性があるのか。それは前述した、彼の父親の存在がキーとなります。
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杜預の家系と父の死とその黒い噂……
杜預には名門の父と祖父がいたとは話しましたが、この父親が嘗て司馬懿と折り合いが悪く、果てには幽死させられた……と、よりにもよって晋書にしっかりと記述されているのです。このため、杜預自身も実は長い間不遇をかこっていたが、司馬昭が司馬家の当主となったことで父の後を継ぐことができました。司馬昭としても後に晋の時代を築いていくのであれば、優秀な杜預の力が欲しかったのでしょう。
現に杜預はその子供、司馬炎の時代に呉に止めを刺し、晋の統一を成し遂げました。杜預が司馬家をどう思っていたのかは分かりません、司馬懿には怨恨があったとしても、自分を取り上げてくれた司馬昭には恩義を感じていたかもしれませんし、寧ろ怨しかなかったかもしれませんし、逆に何のしこりもなかったかもしれません。
しかし、その後の時代において杜預はどうだったのでしょうか。司馬一族の縁戚、多大な貢献、かつての遺恨、本人の優秀さ……これらを加味した結果「狡兎死して走狗煮らる」……そのようになった可能性は十分に考えられるとも思います。首の瘤という異常、そしてその死に関する記述の少なさ。杜預の死因が敢えて歴史で触れられなかった可能性もまた……考えられなくはないでしょうか?
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三国志ライター センのひとりごと
不穏な空気を出し過ぎてしまいましたが、杜預の子孫は後の世にも出てきます。唐代の詩聖杜甫は彼の末裔とされていますね。また杜預の子ですが、司馬ガイ、司馬イツ、司馬リン、果てには恵帝からと色々な役職に任ぜられ、良く仕えていたそうです。
……後々の八王の乱を思い出すと、そうそうたる面子ですね。一族の関係者でもありながらこの時代を生き延びた杜預の家系はさるもの、なので杜預がおめおめと暗殺されたとは考えにくいですが……敢えて、ちょっとひとひねりな考察をさせて頂きました。勢いだけの考察にお付き合い、ありがとうございました。ぱかーん。
参考:晋書杜預伝
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