『三国志』とは言いながら、三国が鼎立したのはけっこう終盤だということに皆さんはお気づきでしょうか。実は、それぞれの王朝がどのように興ってどのように滅んでいったのかよくわからないという人も多いのではないでしょうか。今回は、そんな皆さんのためにまず、魏王朝がどのようにして興り、最後はどのように滅んでいったのかをご紹介したいと思います。
この記事の目次
曹操が魏の礎を築く
『三国志』初心者の中には、魏という王朝を立てたのは曹操だと思っている人も多いようです。しかし、曹操は魏という国を建てたわけではありません。曹操はあくまで魏の礎を築いたに過ぎず、自ら皇帝を名乗ることはありませんでした。しかし、曹操は献帝から魏王に封じられています。王というのは本来皇族しかなれないもの。それなのに曹操が魏王になったということは、「ゆくゆくは献帝から帝位を譲ってもらおう…」なんてことを考えていたのかもしれません。
曹丕、嫌いな奴らをポイポイ
父・曹操が築いた礎の上に魏王朝を完成させたのは息子の曹丕でした。曹丕は魏王となった後、献帝から禅譲を受けて魏の皇帝・文帝として君臨します。
曹丕は父がかつてそうしたように内政に力を入れ、文学を奨励しました。そのためか、魏の政治は非常に安定していたといいます。しかし、問題が1つありました。彼は身内に冷たかったのです…。かつて熾烈な後継者争いをした曹植には特に冷たく、辺境の地に追いやったのでした。
曹叡、人身売買を流行らせる珍プレーを見せる
魏王朝を興した曹丕でしたが、その数年後に亡くなってしまいます。そこで、魏の二代目の皇帝として即位したのが明帝・曹叡です。
曹叡は軍事面ではなかなかの手腕を発揮したようですが、宮殿を次々に建てて民を苦しめたり謎の婚姻制度を設けて人心売買を横行させたりと内政はズタボロでした。しかし、そんな彼も若くして病にかかり、亡くなってしまいます。その後を継いで3代皇帝となったのは曹芳でしたが、わずか8歳であったために皇族である曹爽と重臣・司馬懿が政務を執り行うことになったのでした。
司馬懿によるクーデターが…!
2人で曹芳を補佐するよう曹叡から言付かっていた曹爽でしたが、次第に司馬懿が目の上のたんこぶのような存在に感じられるようになっていきます。曹爽は次第に司馬懿を邪険に扱うようになり、司馬懿はそれに対して静かに不満を募らせていきました。そして、曹爽が曹芳と共に曹叡の墓参りに出かけた際、ついに司馬懿が動き出します。司馬懿は曹爽の留守中に洛陽を乗っ取り、曹爽を三族皆殺しの刑に処したのです。これ以降、司馬氏が魏の政権を握ることになったのでした。
曹髦の無念
その後、本来政権を握っているべきである皇族たちは司馬氏に対して抵抗しますが、かつて曹丕が身内の力を削いでいたために司馬氏に返り討ちに遭い、ますます弱体化していきました。司馬懿の死後に魏の実権を握った司馬師は、「色ボケ野郎に皇帝は務まらん」と言って曹芳を廃位します。
司馬師は自分好みの曹據を皇帝として擁立しようと考えていたのですが、なんとここで曹叡の皇后・郭太后が曹髦を猛プッシュ。結局、曹髦が皇帝となったのでした。思い通りに事が進まなかった司馬師は不満げでしたが、皇族たちは皆「曹髦が皇帝となったからには、かつてのように魏も栄えよう」と期待に胸を膨らませました。
ところが、皇族の期待通りにはなりませんでした。司馬師やその後を継いだ司馬昭が政権を牛耳り、曹髦は持ち前の才能を発揮する場を持つことができなかったのです。しかし、ただ黙っている曹髦ではありません。司馬昭を討つことを決意したのです。曹髦は自ら剣を持ち、数百人の召使と共に司馬昭のもとに向かいました。
ところが、なんと司馬昭の懐刀・賈充が待ち構えているではありませんか!これには曹髦もビックリです。
なんと味方だと思っていた者の中に、司馬昭の暗殺を密告したものがいたのでした。曹髦は賈充の部下に討ち取られ、その上皇太后の暗殺を企てていたと汚名を着せられるという無念の死を遂げたのでした。
ついに司馬氏に取って代わられる
曹髦の後に皇帝となったのは、元帝・曹奐です。曹奐はやはり司馬昭が立てた傀儡皇帝で、何の力も持っていませんでした。かつて曹奐の祖父・曹操が皇族ではないにもかかわらず王となったように、司馬昭もまた曹奐を操ってうまいこと晋公から晋王になりました。司馬昭がいつ皇帝になってもおかしくない状況になったのです。
ところが、司馬昭はその後亡くなり、司馬炎がその後を継いで晋王となります。そして、司馬炎はその後間もなく賈充らと共に曹奐に禅譲を迫り、晋王朝を立てたのです。こうして5代続いた魏王朝の歴史に終止符が打たれたのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
盛者必衰とは言いますが、王朝の興亡は本当に切ないです…。
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