今回は諸葛亮、諸葛孔明の逸話をいくつか紹介しつつ、見ていきたいと思います。諸葛亮は多くの逸話を持ち、また様々な計略を駆使した人物としても有名ですね。しかし逸話や計略によっては三国志演義のものもあり、やや創作と史実が混ざっている部分も多くあります。
それは決していけないという訳でなく、そういった面が生まれてしまうというのも諸葛亮の人気であり、魅力ではあると思いますが、今回は主に史実方面の逸話に関して紹介していきましょう。きっと、その人柄が見えてくると思いますよ。
この記事の目次
諸葛亮と言えば!真っ先に挙げられるべき逸話「三顧の礼」
やはりまずは、諸葛亮と言えばこれ!と言うべき逸話、三顧の礼の紹介から。三国志演義にも出てくるエピソードで、大変人気のある逸話だと思います。この逸話は諸葛亮が北伐に出発する前に劉禅に向けて奉った上奏文です。この中の一文に
「先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事」
という文があります。まだ身分が低く、何者でもなかった諸葛亮の元を劉備自らが三度も尋ねてきた、決して卑しい者だと扱うことはなかった……という、諸葛亮の先帝、劉備への深い感謝と思い出が込められた一文です。
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「三顧の礼」が如何に凄く、驚きの逸話であったか
この三顧の礼、当時を振り返ると実はかなり驚きの逸話です。三国志の時代、基本的に雇われる側が有力そうな主の元に訪れて自分をアピールする、もしくは優秀だといううわさを聞いて主の方がその人物似合ってみたいと呼び寄せる、というような形態が一般的だったのですね。
曹操を例にすれば、前者は郭嘉、後者は司馬懿と言った所でしょうか。更にこの頃の諸葛亮はまだ無名、更に劉備の方が年上であるなど、かなり身分にも立場にも格差があった両者。
それにも関わらず、何度も諸葛亮の元に自ら赴いた劉備。この一件は、諸葛亮の心に深く、刻み込まれていたのでしょう。それから何年も経っているのにこの話をする諸葛亮、目を閉じれば思い出すほどに、衝撃でもあったのかもしれません。
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劉備が諸葛亮との関係を例えた逸話「水魚の交わり」
次にご紹介する逸話は、水魚の交わりです。これもまた、有名な逸話ですね。こちらは正史三国志、諸葛亮伝にて確認できます。原文は
「先主解之曰 孤之有孔明 猶魚之有水也」
という風になっています。新参の諸葛亮と劉備が親密になっていることに関羽と張飛は快く思わず、それを危惧した劉備は二人の関係を「魚が水を得たようなもの」と例えたという話です。この話から生まれた故事成語が水魚の交わりになります。
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切っても切れない重要な関係、それは両者にとっても
魚は水があればこそ生きていける、そのように、欠かせない存在を水と魚に例えたのが水魚の交わりの始まりです。因みに内容からは劉備が自らを魚に、諸葛亮を水に例えています。しかしこの水魚の交わりの元ネタともいえる故事の「如魚得水」、水を得た魚というものがあるのです。これは魚が水を得るように「自分に適した環境、境遇を得ること」を例えたものです。
前述した出師表の諸葛亮の劉備への並々ならぬ忠義と感謝、それは嘗て、何者でもなかった諸葛亮にある意味、劉備は活躍の場を与えたとも言えるでしょう。そういう意味では、両者ともに魚であり、水であったのかもしれませんね。
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「諸葛亮は実は計略は得意ではなかった」という説
ここで諸葛亮の「計略」に関してお話ししましょう。三国志演義に比べると正史三国志における諸葛亮の活躍の比重は政治家としての働きが多くあります。しかし諸葛亮は兵法を応用して「八陣の図」を作成し、その要点を的確にとらえていたと言われています。
それにも関わらず「諸葛亮は戦下手だった(誇張表現)」と言われてしまうことがありますが……これは、正史三国志で陳寿が諸葛亮の北伐に関して「魏への北伐があまり成功しなかったのは、諸葛亮が臨機応変な軍略が得意じゃなかったからかも……」という発言に起因したものですね。
ただ、陳寿もその後「そもそも北伐に関しては天命であり、人智が及ぶところではなかった」とも評しているので、ただ一方的に諸葛亮下げを行っている訳ではありません。
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【北伐の真実に迫る】
諸葛亮とは正道を行くもの
ここで面白いのが、三国志に注釈を付けた裴松之の評です。裴松之は諸葛亮のことを「基本を守る人間であり、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面で無理をしなかったのだ」と評しています。そして「これこそ賢者の偉大なところであって、不得手な面をわきまえているということは得手を知っているということである」という評価をしています。
確かに、諸葛亮は一般的に奇策と言うものを用いなかったのかもしれません。それは苦手ということも理由としてあったのでしょう。ですがそれをむやみやたらと乗り越えようとするのでもなく、ただ受け止め、それを良く理解していたからこそ……そう考えると、諸葛亮の真面目さ、冷静さ、更には自分に対する審美眼や真摯な態度など、正に「正道」といった面が見えては来ないでしょうか。
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諸葛孔明、学問に関する大きな名言を残す
さて諸葛亮は「苦手だと理解していたからこそ奇策は用いなかった」とすると、もしかしたら「それって苦手科目を放置していたってこと~?」とか誤解を受けるかもしれません。そのようなことは決してないということを理解できるのが、諸葛亮が学問に関して残したこちらの名言です。
「学ぶことで才能は開花する、志がなければ、学問の完成はない」
これは「誡子書」という、子への戒めの言葉、から抜粋したものです。学ぶことの大事さを説くと同時に、志こそが学問の完成に必要だという戒め。ただ漠然と学ぶのではなく、そこに志が必要、一本の芯こそが要となるのだと諸葛亮は言っているのですね。
同時に、諸葛亮が嘗て、懸命に学び続けている中。無為に過ぎていくと感じたことはなかったのでしょうか。もし一度でもそれが頭を過ったとするなら。それこそ、劉備との出会いは、諸葛亮の「芯」であったのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
三国志演義での奇術交じりの神の領域の諸葛亮を好ましくはあるのですが、この正史三国志から読み取れる、どこまでも真面目で、真摯に他者や自分と向き合う姿勢、それを崩さない冷静さ。これもまた、諸葛亮の大きな魅力の一つであると思います。
また劉備との出会い、その存在が、逸話や名言の中からどれほど諸葛亮の中で大きかったのか、それもまた感じられるのではないでしょうか。嘗て、諸葛亮が胸に抱いていた志がどのようなものであったのか、それはもう分かりませんが。劉備亡き後もその国を支えようとする姿は、その存在こそが諸葛亮の「志」になったのではないかと、思うのでした。どぼん。
参考:蜀書諸葛亮伝 出師表
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