曹操は朝廷から爵位を上げられることになり魏公へ就任。曹操の懐刀として有名な荀彧(じゅんいく)は、曹操の公就任を何度も諌めて止めたそうです。
しかし曹操軍の軍師として曹操に仕えていた荀一族で、荀彧の甥にあたる荀攸(じゅんゆう)は曹操の魏公就任に賛成。こうして曹操の魏公就任に対して意見が分かれた荀彧と荀攸ですが、もし二人が魏公就任に反対していればどうなったのでしょうか。
曹操を魏公へ
曹操は馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)の反乱軍を討伐。その後馬超や韓遂の軍勢の残党軍を夏侯淵(かこうえん)に任せて鎮定戦を行わせた後、長安(ちょうあん)を経由して本拠地・鄴(ぎょう)へ帰還します。曹操は鄴へ帰還すると董昭(とうしょう)から「魏公へ就任するべきです」と進言を受けます。この進言は董昭の一存で行われたわけではなく、他の同僚や部下に相談して賛成意見として支持された進言でした。
曹操は董昭の進言にはっきりと答えることなくその場を下がらせます。また曹操は朝廷からも「前漢の高祖・劉邦(りゅうほう)の部下の蕭何(しょうか)と同じく、名前で呼ぶことをやめて、朝廷では小走りをしなくてもよく、殿上に登った際は剣を帯びたままで良い」という特権を付与。
更に朝廷から「丞相(じょうしょう)。君を魏公へ就任する」と命令書が届きます。曹操は朝廷や臣下から魏公就任を要請する進言や命令書が届くことになるのです。しかし曹操はこれらの意見を跳ね除けて魏公へ就任することはありませんでした。
家臣達からも魏公の位を受けるようにと説得を受ける
曹操は後日再び董昭から「朝廷から受けた魏公へ就任するお話を受けていただきたい」と進言にやってきます。曹操は董昭が再び魏公へ就任する進言をしてきたことにイラっとしますが、今度は董昭だけの進言ではありませんでした。
董昭は嘆願書を曹操の前に出して「この嘆願書は私だけではなく、荀攸(じゅんゆう)殿や程昱(ていいく)殿、夏侯惇(かこうとん)殿、曹洪(そうこう)殿、曹仁(そうじん)殿など多くの将軍や文官達から魏公就任の賛成意見を署名していただいております。」と述べます。
曹操は董昭から出された嘆願書を読んで、自らの魏公就任をこれだけ多くの臣下から支持されていることを知り、朝廷からの命令を受ける決意。こうして曹操は魏公へ就任することになり、魏公就任から三年後には魏王へ位を進めることになるのです。
荀彧は曹操の魏公就任に反対
荀彧は曹操の魏公就任に反対意見を上げておりました。なぜ曹操の臣下がほとんど魏公就任に賛成しているにも関わらず、荀彧だけが反対意見を掲げていたのでしょうか。ここでざっくりとレンが考える荀彧が曹操の魏公就任反対した理由を述べたいと思います。詳しくはレンのこちらの記事に書いてありますのでご覧下さい。
荀彧は曹操に天下統一を行ってもらいたいと考えておりました。なぜ荀彧は曹操に天下統一をしてもらいたいと考えていたのか。その理由はいくつかありますが、曹操が天下統一することによって漢の復興を目指していたと思われます。
しかし曹操が赤壁の戦いで孫権(そんけん)・劉備(りゅうび)連合軍に敗北したことによって、曹操と荀彧の目標であった天下統一事業が頓挫することになります。曹操は荀彧との目標である天下統一を考えた時、自らの年齢が高齢であることに不安を感じることになります。
曹操はいくつまで生きられるかわからない状況で、不可能に近い目標である荀彧と定めた天下統一の目標の方針を転換することに。曹操が新しい目標として立てたのが爵位を進めて行くことで、形だけでも天下を取ることにありました。曹孟徳は自らの時代で爵位を上げるだけ上げてもらい、曹操の死後息子達の代で皇帝(当時皇帝=天下を統治する人物と考えられていた)となる事ができれば形式上でも天下統一を達成することになり、荀彧との約束が果たされると考えておりました。
だが荀彧は曹操に形式上の天下統一ではなく、実質的な天下統一をしてもらいたいと考えていたため魏公就任に反対するのでした。だが荀彧の甥である荀攸は曹操の魏公就任に賛成。なぜ荀彧と荀攸の意見は違うのでしょうか
荀彧と荀攸の意見が違う理由は
なぜ荀彧と荀攸の意見は違うのでしょうか。同じ荀一族でありながらです。その理由は荀彧と荀攸の立場の違いからだとレンは考えます。荀彧は曹操に天下統一を行ってもらい漢の復興を目指しておりました。しかし荀攸は曹操の軍師の地位にいたため、曹操が魏公就任に就任すれば、軍略上有利になることはあっても不利になることはほとんどなく、魏公就任に特別反対する必要性があったわけではなかった為、賛成していたのではないのでしょうか。
だがこれは政略上や戦術上のことであって、荀攸の本心をレンが語っているわけではありません。そのため荀攸は曹操の魏公就任に本心から賛成していたのでしょうか。
もしかしたら荀彧と同じ意見だったかも…
正史三国志・魏書に荀攸の性格を「物事を処理する能力と危険を察知能力に長けている」と書かれております。このことからレンは荀攸と荀彧の意見は一緒だったのではないのかと予想してみました。なぜこのような予想ができるのか。それは荀攸が「危険を察知能力に長けている」からです。
荀攸がもし荀彧と同じ意見だったとしても、曹操の臣下のほとんどが魏公就任に賛成しているにも関わらず、荀彧と一緒に魏公就任に反対意見を述べればかなり危険な状態になっており、軍事上や政治上で他の臣下とコミュニケーションが上手く取れなくなるかもしれません。
荀攸は荀彧の意見に賛成する事と上記の危険性を天秤にかけた結果、荀彧の意見に反対する姿勢を取らざるを得なかったのではないのでしょうか。ではここからは少し「もしかしたら」のお話をしたいと思います。もし荀彧と荀攸の二人が曹操の魏公就任に反対していればどうなっていたのでしょうか。
曹操の臣下の中でかなり強い影響力を持った二人が反対すれば、曹操としても無理を通して魏公へ就任することはなかった可能性が高かったでしょう。もし曹操が魏公に就任することがなければ荀彧も殺害(自殺)することは、なかったと思います。そして荀彧と荀攸が曹操の魏公就任を否定したことによって、皇帝になって形の上での天下統一を破棄することになり、当初の目標である天下統一を行うことになるでしょう。
そして荀彧と荀攸は曹操を支えて、実質的な天下統一を推し進めていくことになったのではないのでしょうか。レンのもしもストーリーで困惑する方も多いですが、無きにしも非ずと考えております。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は荀彧と荀攸の二人に焦点を合わせて曹操の魏公就任についてご紹介しました。もし曹操が魏公へ就任することがなければ、荀彧との契約であった「天下を実質的にすべて支配」して統治しなくてはならなくなり、戦場を駆け回っていたでしょう。
そして曹操がもし荀彧と一緒に戦場を駆け回って天下統一を果たしていれば、魏による天下統一国家が成立する可能性が高く、大きく歴史が変わっていたことは想像するに難くないでしょう。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書 井波律子・今鷹真著など
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