十常侍の筆頭である宦官の張譲(ちょうじょう)、黄巾の首領である張角(ちょうかく)、
洛陽を占拠した董卓(とうたく)、青州に端を発した黄巾の残党百万、
曹操の本拠地である兗州を掠め取ろうとした呂布(りょふ)、
このように曹操は苦難の連続を生きてきました。
その度に命を捨てる覚悟で戦いに挑んだに違いありません。
普通の人間であれば到底あらがえないような逆境に耐え、
経験を積むことで曹操はどんどんとたくましくなっていきます。
曹操にとっての大いなる壁
そんな曹操にとって長年に渡り苦心の対応になったのが河北の覇者となる袁紹(えんしょう)です。
袁紹は四世三公を輩出した名門である袁氏の出であり
(袁術と家督争いを繰り広げていますが)、
曹操は腰ぎんちゃくのように従っていました。
反董卓連合を結成した際には袁紹を盟主に立てねばならず、
曹操が献帝を保護し許に遷都した際には大将軍の位を袁紹に譲っています。
常に袁紹の顔色をうかがっていなければならない立場でした。
曹操の苦悩
建安四年(199年)八月、黄河を挟んで曹操軍と袁紹軍が対峙することになります。
そして翌、建安五年(200年)十月、黄河の南の官渡で大激突が起こるのですが、
そこに至るまでの曹操の苦悩は計り知れません。
本拠地の兗州は周囲を群雄に囲まれた形勢でした。
呂布、袁術、李傕、劉表、張繍、孫策など袁紹以外にも対応しなければならない相手が多数いました。
そこへの手が打てて初めて袁紹と対峙することができるのです。
さらに中原は度重なる戦乱で荒廃し、土地は荒れ、民の数も極端に減少していました。
曹操は絶えず兵糧の心配をしなければなりませんでした。
擁立した献帝も外戚と謀って政を掌握しようとしますし、
その繋がりで劉備も謀反を起こします。
袁紹の優位性
対して袁紹は幽州の公孫瓚(こうそんさん)を討ち滅ぼし河北を制していました。
異民族の烏丸などとも誼を通じており後背に敵がいません。
肥沃な土地と民の数ですでに曹操を圧倒しています。
多数の名士が袁紹を頼って河北に移り住んでいます。
人にも事欠きません。
さらに袁紹は曹操の背後にいる張繍や劉表と結んで牽制します。
さらに汝南にいた劉辟らを懐柔し、そこに劉備を送り込んで後方の攪乱を画策します。
誰がどう見ても曹操に勝ち目はありません。
曹操の立場から考えると、日本における今川義元に対する織田信長以上に劣勢な状況でした。
袁紹の判断ミス
持久戦をすれば袁紹の勝ちは間違いない状況です。
曹操は戦いを続けていく兵糧がなかったのです。
官渡の戦い以前に曹操は配下の進言に耳を傾けて許都の近郊に屯田を設けています。
にも係わらず曹操軍は深刻な兵糧不足の問題を抱えていたのです。
袁紹の配下だった許攸が曹操の陣を訪れたとき、兵糧の問題を指摘してきました。
曹操はまだ一ヶ月は耐えられると答えましたが、
実はあと一日分しか兵糧はなかったと云われています。
しかし袁紹は短期決戦を決断しました。
持久戦を提唱する田豊(でんぽう)を投獄し、沮授(そじゅ)を退けます。
打てる手は慎重に打ち、あらゆる策を弄してきた袁紹でしたが、
最後はその優位性に驕って判断を誤ります。
兵の数は正確にはわかっていませんが、
袁紹は曹操の十倍近い兵力を有していたと云いますから
力攻めでとどめをさせると自信を持っていたのでしょう。
器の差
曹操が袁紹に優ったは何だったのでしょうか。
ひとつは逆境を耐え抜いてきた力の差です。
それは大将の器の差にもなりました。
この器の差が勝敗を決することになります。
交戦中も重要な人材が袁紹から曹操に靡いていくのです。
特に許攸は袁紹の陣営のなかでも一握りの人間しか知り得ない兵糧補給地の情報を持っていました。
袁紹は烏巣にある兵站基地を急襲され焼き払われてしまうのです。
逆境を共に耐え抜いてきた曹操の家臣たちは最後まで曹操を信じて戦います。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
官渡の戦いにおける曹操の勝利は、
織田信長の桶狭間の戦い以上の奇跡的な勝利と云えます。
逆境に耐え抜く力と知恵、そして培われていく信頼関係。
このような経験を積んで曹操は三国志最強の英雄となり、
他の追随を許さぬ勢力を築いていきます。
並外れた才能の持ち主だった曹操ですが、
苦しみなくして成功はなかったことでしょう。
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