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ケチで有名だった曹洪の子孫はどうなったの?ケチが災いし処刑されかけた曹洪

2017年1月17日


 

曹洪と曹操

 

曹操(そうそう)の従兄弟として三国志に登場する曹洪子廉(そうこうしれん)

曹操が董卓(とうたく)の配下の徐栄(じょえい)に撃破された時、

馬を失った曹操に自身の馬を貸して逃がすなど、自己犠牲に富んだ大活躍をして

曹操の絶大な信頼を得ていました。

後には、驃騎将軍にまで昇った曹洪ですが、金持ちでありながらケチで、

かつて曹丕(そうひ)の借金申し込みを断った為に命を取られそうになっています。

では、曹洪の死後、その一族はどうなったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ケチが災いし処刑されかけた曹洪

曹洪

 

曹洪は、曹操の挙兵の頃から付き従い、武功ばかりでなく、

地味な反乱制圧や食糧補給などにも才能を発揮して、

表裏に渡り曹操を支え続けました。

 

そんな曹洪ですが、若い頃から大金持ちであったようで、

譙県の県令が曹操の資産と曹洪の資産総額を同じだと報告すると、

司空だった曹操は

「バカを言え、曹洪がワシと同じなわけはない」と否定したそうです。

収入も多いけど、出るのも多い曹操は、自分の純財産は

曹洪には及ばないと考える程に曹洪は大金持ちでした。

 

ただ、ここまで曹洪が金持ちなのはケチであった為で、

資産運用として、金貸しなども行い手広く稼いでいました。

借り手の弱みに付け込んで、あこぎな取り立てもしたのかも知れません。

曹操は曹洪の玉にキズである金銭欲の強さを問題視し、

絶えず、曹洪の側近に注意するように命じていました。

 

ところが、曹操の不安は的中、皇太子の曹丕が

絹百疋(ひき)を借入しようとした時には、これを断ってしまいます。

執念深い曹丕は、この曹洪の仕打ちを覚えており、

後に曹洪の食客が法律を犯すと連座制を適用して曹洪を逮捕し

獄に降して処刑しようとします。

 

曹操の正室の卞(べん)夫人を含め、曹丕の正室、郭(かく)皇后等、

多くの人が助命嘆願した結果、曹洪は、地位と領地を削られて釈放されますが、

一歩間違えれば、金の恨みであの世行きという危ない所でした。

 

曹洪の後は、曹馥が継いだ

曹洪

 

曹丕には、冷遇された曹洪ですが、以後は下手に出て大人しくし、

曹丕の死後まで生き延びて曹叡(そうえい)の時代の232年に死去しました。

 

曹洪には、曹馥(そうふく)と曹震(そうしん)という二人の息子がいましたが、

曹震は、曹操の存命中に、曹洪の封地から食邑を分けて列侯になっていたので、

曹洪の本家は、曹馥が継いで都陽(とよう)侯となりますが、

この曹馥にはこれというような逸話がありません。

 

もう一人の曹震も、履歴が少ないのは同じです。

 

 

曹洪の娘は美人で有名、荀粲に嫁ぐ

荀彧

 

曹洪には、名前不詳の娘が一人いました。

この娘はケチな父には似合わず、評判の美女であり、

荀彧(じゅんいく)の末っ子である荀粲(じゅんさん)に嫁ぎました。

この荀粲は、謹厳実直な荀彧とは正反対で自由奔放な人であり、

道家の教えを信じ、儒教の経典など聖人の教えの残りカスと

放言してはばからない異端の人物でした。

 

また、荀粲の女性観も独特なものでした。

 

「俺は、女に徳など求めない、知性も必要ない、

女は、ただ、美しくさえあればそれでいいのだ!」

 

こういう荀粲でしたから、美女の誉れ高い驃騎将軍、曹洪の娘は、

まさに理想の女性であり、彼女を妻にしたのです。

 

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妻を愛し抜いて後を追うように死んだ荀粲

 

妻は、ただ美しくあればいいなんて、随分傲慢な人物に見えますが、

その代わり、荀粲の愛情の捧げ方は徹底したものでした。

美しい衣服を買い与え、高価なカーテンで部屋を飾ると、

他には女を造らず真っすぐに家に帰っては、妻だけを愛したのです。

 

或る時、曹洪の娘が熱病に罹ると、荀粲は庭に下りて自分の体を冷やし

妻に寄り添って寝て、熱を下げようとしたと言います。

ここまで献身的に尽くすのも、妻の美しさを愛したと言う事ですが、

しかし、こうまでして尽くされれば、妻も嬉しかったのではないでしょうか?

 

曹洪の娘は、美人薄命の通り、体が弱かったようで、

結婚からしばらくして、あっけなく病死してしまいます。

荀粲の落ち込みは大変なもので、痩せ衰えて何も手につきません。

 

その時に傅嘏(ふか)という友人が弔門に来て

普段の荀粲の口癖を逆手に取って慰めて言いました。

 

「才色兼備の女性は得難いが、君は美しくさえあればいい

と言うのだから、美しい妻を探すのは難しくあるまい

どうして、そこまで嘆くんだい?」

 

すると、荀粲は傅嘏に向き直り

 

「確かに妻は傾国という程の美女ではなかった、、

しかし、また簡単に逢える美女ではないよ・・」

 

そうして、荀粲は悲嘆の淵に沈んで病気になり、

一年後、妻の後を追うように亡くなりました。

西暦237年頃で、享年29歳です。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

曹洪の子孫である、曹馥と曹震、そして娘では、

荀粲の妻となった娘の方が最も記述が多い事になります。

直接、彼女に言及した記述ではありませんが、

あの異端の荀粲が、命を削る程に愛したのですから、

きっと短いけど幸せな結婚生活だったのでしょう。

 

女は顔だと豪語していた荀粲ですが、妻の死においての

落胆を見ると、ただ美しいが為だけに愛したとも

言えないような感じがしますね。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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