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5話:頓挫する王莽の新と、後漢王朝の復活

2014年11月20日


 

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王莽

 

前漢を滅ぼした、王莽(おうもう)は、皇帝の外戚(がいせき)から出た人物です。外戚(がいせき)とは、平たく言えば、皇后の親戚・家族の事を意味しています。皇帝と違い、皇后は庶民からでも登れたので、漢の時代には、外戚の一族が権力を独占し、国が混乱する原因になりました。

 

前回記事:滅びゆく秦、そして中国に二人の巨星が現れる

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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 何進大将軍が貴族出身、袁紹の上司だった理由

何進

 

三国志の前期のハイライトに登場する何進大将軍も、元々は豚の屠殺業者でしたが、妹が後漢の霊帝の妃になり、王子を産む事で引き立てられ、袁紹のような名門出身の貴族の上司になっています。

 

簒奪する王莽

 

さて、王莽は、前漢10代皇帝、元帝の皇后、王政君の甥でした。王一族は、その功績で外戚として位人臣を極めましたが、王莽の父や、兄弟は早くに死んだ為に王一族では貧しい方でした。王莽は、自分が出世する為には手段を選ばない男でした。叔父の大将軍王鳳が病気になると、王莽は献身的な看病を続けます。それは、善意ではなく自分を売り込む為の王莽の計略でした。

 

玉璽

 

王鳳は王莽の狙い通り感激し、11代の成帝に王莽を推挙します、この時から、王莽の順調な出世が始まります。王莽の権力は日増しに増大し、王莽の独裁を除こうとした哀帝を殺害して、皇帝の玉璽(印鑑)を奪うと幼少の平帝を立て、ここに、娘を嫁がせて外戚としての権威を強化します。

 

そして自身は皇帝を傀儡として操り、前漢帝国を思うがままに操りますが、王莽の野望は、この程度では治まりませんでした。14歳で平帝が死去(毒殺の噂も)すると今度は赤ん坊の劉嬰を皇帝に立てます。

 

本当は、王莽は直ぐにでも皇帝になりたかったのですが、強引に帝位を奪っては世間の風当たりが強いと考え、赤ん坊皇帝の代理として、暫くは仮皇帝を名乗って実際の政治を取り仕切ります。

 

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不思議な天変地異の報告が次々と・・・

イナゴに畑を荒らされ食料不足

 

この頃から、都には、不思議な天変地異の報告が相次ぎます。それらは、やがて聖天子が現れ、天下が太平になるという怪しい情報でした。

 

やがて、それは王莽が天子になる事を期待する情報に変わりました。王莽は、最初、そのような情報をトンデモないとして受け付けませんでした。ところが、度々、人民が来て、王莽を天子にという請願を行うと、そこまで言うのならばと重い腰を上げて劉嬰を廃位して皇帝に即位します。

 

まあ、早い話この天変地異や人民の請願は全て王莽の自作自演でした(笑)。

 

自分で皇帝に成れないなら、周囲から雰囲気づくりと考えたのですがこのようなお膳立ては、後の時代にも見られるキレイ事の見本になります。

 

前漢の崩壊

劉邦と項羽

 

さて、西暦8年、王莽は国号を新に改めて自ら初代皇帝になります。ここに劉邦(りゅうほう)項羽(こうう)との激闘の末に立てた前漢は崩壊しました。しかし、情報プロデュースには長けていた名ディレクター王莽も現実の政治には全くのド素人でした。

 

王莽は周の時代の政治を理想とし、経済を当時の制度に改めようとします。周の時代には物々交換が主体でしたからそれを推進しようとしたのです。もちろん、高度に発達した漢の貨幣経済はそれに全く合わず、物価は暴騰し、経済は疲弊して庶民は生活苦に苦しみました。

 

一方で、王莽は華夷秩序に基づき、周辺国を見下して外交を行いました。それに周辺国は反発、王莽は軍を派遣しますが、負け戦でした。

 

赤眉軍

 

この頃から、王莽の政治に不満を持つ、勢力が各地で蜂起するようになります。叛乱は豪族が主体の緑林(りょくりん)軍と農民主体の赤眉(せきび)軍が代表されます。

 

緑林軍は、劉玄という漢の王族の末裔が率い更始帝を自称します。この緑林軍には、劉秀という武将がいましたが、彼が後漢を興した光武帝です。王莽は、これら叛乱軍を討伐すべく、100万の大軍を派遣します。しかし、昆陽の戦いで劉秀は、新の100万の軍勢を撃破しました。

 

ここに至って、各地の豪族は完全に王莽を見限ってしまいます。叛乱が頻発するなかで、王莽の家臣達も次々に王莽を見捨てて脱出。赤眉軍と更始帝の軍勢は連合して長安に入城して、王莽を殺害し、ここに新は、西暦23年、たった15年で滅亡しました。

 

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更始帝の堕落

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

長安に入った、更始帝は志を忘れて、贅沢に耽り、論功行賞を巡って赤眉軍とも関係が悪化していきます。

 

赤眉軍

 

赤眉軍は、反乱を起して、更始帝を殺害、長安を占拠して劉氏から皇帝を立てます。その頃、人間関係のイザコザから、更始帝と距離を置いていた、劉秀は、赤眉軍の討伐に参加しこれを撃破します。

 

牛に乗って登場する光武帝(劉秀)

 

更に、各地で王を呼称していた地方勢力を討伐した劉秀は、西暦25年に後漢の光武帝として即位し、都を洛陽に定めました。長安を都にしなかったのは、長安が戦乱で荒廃して復活していなかった為であると言われています。

 

名将・有能な光武帝

 

 

光武帝は、万事に控えめで慎重な性格、有能な家臣団の言う事に耳を傾け王莽の叛乱で疲弊した国の休養に勤めます。

 

漢王朝と光武帝

 

まずは、6000万人から、2000万人に激減していた人口を回復させる為に、奴隷を解放して自由民を増やし、労働意欲を増強。

 

屯田兵(とんでんへい)の創設で更に国力をあげる

兵糧庫の中を一杯にした任峻

 

また、屯田兵(とんでんへい)という農業をしながら、国境警備をする兵士を創設して、食糧を自給させるなどして、大幅な減税を行いました。光武帝の政策は成果を上げ、漢はかつての栄光を取り戻しました。ところが光武帝の死後には、再び、短命で無能な皇帝が続くようになります。

 

宦官たち 

 

そうなると前漢時代のように、皇帝の外戚が権力を振るうようになり、皇帝の使用人である宦官との争いが再燃するようになります。

 

張角は歴史の表舞台に登場

 

こうして、世の中が乱れると、かつての陳勝の乱、そして、新時代の赤眉の乱のように、張角が率いる新興宗教太平道が興り、西暦184年黄巾の乱が発生、三国志の時代が始まるのです。

 

次回記事:6話:三国志は黄巾の乱から始まった

 

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