kawauso編集長が思うに、世の中は、透明化が大事なのです!
隠しだてや隠蔽は、物事の理解を妨げてしまうからです。
という事で、kawausoは、まだ見えない部分が多い三国志をミエル化宣言します。
今回は、三国志の起爆剤となった董卓(とうたく)軍をミエル化してみました。
関連記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第1話:改革なき破壊者 董卓
この記事の目次
董卓軍は、どのような組織になっているのか?
漢王朝を実質的に滅ぼしたのは、董卓であると言えるでしょう。
そして、それを可能にしたのは、彼が率いていた精強な涼州や并州の
騎馬兵達だと言っていいでしょう。
董卓の死後、その騎兵たちは、バラバラに中原に散らばり、
群雄割拠、そして、三国志の形成に大きな影響を与えました。
最も有名なのは、呂布(りょふ)が率いた騎馬軍団で、
次には、長安で好き放題した李傕(りかく)や郭汜(かくし)の軍団が有名でしょう。
では、その董卓軍の序列や配属はどうなっていたのかを
kawausoが資料を参考にミエル化します。
董卓軍をミエル化、整然とした騎馬軍団と序列
というわけで上記が、董卓軍をミエル化した組織図です。
組織の頂点には、もちろん相国になった董卓がいて、
№2は、彼の弟の董旻(とうびん)が左将軍として控えています。
とっても地味な董旻ですが、実際には、董卓が権力を握る上で、
なかなかな貢献をしていて、左将軍の地位を与えられるのは、
単純に身内だからというわけではなさそうです。
№3は、董璜(とうこう)と言い、若死にした
董卓の兄董擢(とうえい)の子ですが、
侍中、中軍校尉として軍を掌握していました。
中郎将、騎督、騎都尉、大都護、董卓軍の実働部隊
その左将軍、董旻の下には、中郎将、騎督、騎都尉、大都護
というような肩書を持つ、実働部隊が、ずらっと連なります。
段煨(だんわい)は、李傕郭汜祭りにも登場した脳筋ばかりの
李傕・郭汜軍団では、例外的な良識の持ち主で、略奪をしなかった人です。
李傕や郭汜が部曲(私兵団)に過ぎない頃から、中郎将なので、
当然、一定の教養の持ち主だったのでしょう。
その隣の牛輔(ぎゅうほ)は、董卓の娘を嫁にもらった男です。
しかし、ただそれだけの人で臆病で猜疑心が強く、董卓が呂布に殺されても、
まともに復讐も出来ずに、殺害を恐れ、逃亡しようとして部下に裏切られ死んでいます。
ただ、牛輔の参謀の討捕校尉、賈詡(かく)が牛輔の配下のDQN部曲である、
李傕、郭汜以下をそそのかして長安を陥落させたので、彼らが一大勢力になります。
徐栄(じょえい)は、董卓軍きっての用兵家で、曹操(そうそう)や
孫堅(そんけん)を撃破した名将ですが、董卓の死後は王允(おういん)に仕え、
襲ってきた李傕、郭汜のDQN軍団を迎え撃ち、味方の裏切りにより敗れ戦死しました。
李蒙(りもう)は、徐栄と共に行動してましたが、董卓が暗殺されると、
王允・呂布政権ではなく、李傕・郭汜に同調して勝ち組になりますが、
気まぐれで猜疑心の強い、李傕に殺害されています。
李粛(りしゅく)は并州の出身で呂布と同郷で親友、呂布を丁原(ていげん)から
寝返らせたのも、李粛ですが、王允・呂布政権の樹立では、侯になった呂布の配下になり、
牛輔を倒すために遠征して失敗し、責任を問われ、呂布に殺害されました。
「そんなぁ、俺達友達だろ~」と李粛は思ったでしょうが、
都合が悪ければ、養父さえ殺す、自分に甘く他人に厳しい呂布に
そんな事を言ってもねww
呂布は素っ飛ばして、胡軫(こしん)というのは、大都護で呂布と同級の武将。
しかし、腕力を頼みに、横暴な振る舞いが多く、呂布に嫌われて、
孫堅の嘘情報を教えられ、大敗します。
董卓の死後には、呂布と袂を分かち、李傕に味方しました。
没年などは不詳ですが、涼州の出身者のようです。
都尉&部曲にいる面々・・・
組織図の一番下の丸で囲った面子は董卓が生きていた頃は
部曲(私兵)だったと思われる人々です。
校尉に任命されていたとあります。
牛輔や呂布以外の中郎将にも、配下はいたのでしょうが、
記録が無いので不明です。
牛輔の校尉だった李傕や郭汜が、呂布と王允政権の打倒に成功して、
献帝を擁して権力をふるったのは、李傕・郭汜祭りで詳しく書いたので、
ここでは述べませんが、一方の呂布の部曲からも、張遼(ちょうりょう)や
高順(こうじゅん)など名将が登場しています。
三国志ライターkawausoの独り言
今回は視点を変えて、董卓軍をミエル化してみました。
他の陣営に比較して、知将が少ない様子が顕著ですが、
高い騎兵の破壊力など、魏、呉、蜀にも匹敵する強力な組織と言えるでしょう。
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