諸葛亮は野心家です。まだ誰にも仕官していない頃、学友に向かって「君たちは仕官すればきっと州や郡の長官にまで昇ることができるだろう」と言い、では君は何になるのだと聞かれたら、笑って答えなかったそうです。言葉にしたらまずいほどの野望。皇帝にでもなるつもりだったのでしょう。
その頃に住んでいた荊州で、長官の劉表に売り込めばすぐ仕官できるくらいのコネはあったのですが、諸葛亮はそうしませんでした。諸葛亮は劉表の下でそこそこの役職をもらうことなど眼中になく、荊州をのっとろうと計画していたのではないでしょうか。
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諸葛亮が荊州で持っていたコネ
諸葛亮は徐州琅邪郡の出身です。父は幼い頃に亡くなり、叔父の諸葛玄に連れられて南方へ移住しました。諸葛玄は劉表と旧知の間柄であったため、そのつてで荊州に住むようになったと考えられます。叔父の代からのコネがあったためか、諸葛亮の上の姉は荊州の有力な一族の子弟である蒯祺に嫁ぎ、下の姉は荊州の名士の龐徳公の息子である龐山民に嫁いでいます。
諸葛亮自身は荊州の名士である黄承彦の娘と結婚していますが、黄承彦の妻は荊州の有力者である蔡瑁の一番上の姉です。蔡瑁の二番目の姉は劉表の後妻になっています。つまり、諸葛亮は荊州では地縁も血縁もないけれども姻戚関係で荊州の有力者とガッチリつながっていたということです。
荊州のコネを利用した場合どこまで出世できたか
諸葛亮の下の姉の嫁ぎ先の義父である龐徳公は人物鑑定家で、自分の甥である龐統に「鳳雛」、息子の嫁の弟である諸葛亮に「臥龍」というニックネームをつけて、彼らが荊州で名声を得られるようにしてあげていました。「鳳雛」と名付けられた龐統は郡の功曹という役職から仕官を始めていますから、もし諸葛亮が荊州で仕官したとしたら、亮さんもそこらへんから役人生活を始めることになっていただろうと思います。
叔父の諸葛玄は豫章郡の長官でしたから、亮さんもうまくいけば郡の長官くらいまでは昇ることができたことでしょう。
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諸葛亮はなぜ荊州で仕官せず、劉備に仕えたのか
「君たちは仕官すればきっと州や郡の長官にまで昇ることができるだろうね」
「そう言う君は何になるんだい?」
「……。」(笑って答えず)
こういう志を持っていた諸葛亮。うまくいっても郡の長官程度までの出世しか望めない荊州で仕官するはずはありません。
そこで目を付けたのが、荊州の北方防衛を担っていた傭兵隊長の劉備です。劉備は抜群の軍事的才能と実績を持ち、天下に名を知られたひとかどの人物でした。北部戦線ではある程度まとまった数の軍勢を任されていたはずであり、その士卒は北の曹操軍との小競り合いで実戦経験をつんだ猛者ばかりです。
一介の戦争職人として、政治的にはまだ誰にも取り込まれていなかった劉備ですが、その彼の武力と諸葛亮の人脈があれば、荊州で何か面白いことができるはず。そう考えて、諸葛亮は劉備に仕えたのではないでしょうか。めいっぱい出世しても郡の長官どまりなどという選択肢よりもよっぽど刺激的で、野心家の諸葛亮にぴったりです。
荊州の不満分子
諸葛亮はノープランで劉備に接近したのではありません。(ここから想像を断定口調で書きますぜ)荊州の不満分子を糾合したうえで、劉備の軍事力を行使するつもりでした。荊州の不満分子とはどういう人たちだったかをお話しする前に、まず下の図をご覧下さい。
これは、はじめての三国志の過去記事
「【kawausoミエル化計画】地味な劉表政権をミエルカしてみたよ!」にある
劉表軍組織図です。
ここに見える顔ぶれのうち、甘寧以外はすべて荊州出身者か劉表の親族です。甘寧は黄祖配下で高く買われないことに業を煮やして孫権のところへ出奔していますから、荊州の劉表政権がいかによそ者に優しくなかったか推して知るべしです。
荊州の不満分子とは、劉表政権に入り込めない他州出身の人材です。諸葛亮を「臥龍」と命名した龐徳公は名士ですが荊州で仕官した様子はありません。彼は荊州の人ですが、劉表政権を牛耳っている有力者たちとうまくいかなかったのかもしれませんね。
彼と親交のあった名士の水鏡先生こと司馬徽も、劉表には仕えていません。司馬徽は荊州の出身者ではなく、劉表政権に入り込めずにいました。司馬徽の門下生の徐庶、その学友の崔州平、石鞱、孟建、いずれも荊州の出身者ではなく、劉表には仕えていません。彼らは荊州出身の有力者に牛耳られていた劉表政権に対する不満分子でした。
よそ者ではない有力な不満分子
そしてもう一人、荊州には有力な不満分子がいました。それは劉表の長子の劉琦です。劉表は荊州の長官になったばかりの頃に、土着の勢力を押さえ込むために荊州の有力者である蔡瑁、蒯越、蒯良らの力を借りてなんとか長官としての地位を安定させた経緯があり、蔡瑁らには頭があがりませんでした。その蔡瑁の姪が劉琦の弟の劉琮に嫁いでいたため、荊州では長男の劉琦をさしおいて劉琮を劉表の跡取りにしようという動きがあり、劉琦は落ち着かない日々を過ごしていました。その劉琦に、諸葛亮は接近しているのです!
虐げられた長男に恩を売る
正史三国志の諸葛亮伝では、諸葛亮が劉備に仕え始めて日に日に親密になっていったという記述のあとに、「劉琦もまた、諸葛亮の才能をきわめて高くかっていた」と続けて記されています。劉琦は後継者問題で身の上が危ないことを諸葛亮に相談し、諸葛亮のアドバイスによって、領地の端っこの前線基地である江夏郡の長官になることを劉表に申し出て、中央での争いから逃れています。
諸葛亮は劉琦から助言を求められてもなかなか答えなかったそうですが、それは自分の身の安全のために人前でおおっぴらに答えることをはばかっただけでしょう。劉琦が厳重に人払いをしたら答えたので。(人払いしたのに正史に記述されている。ダダ漏れ。)
諸葛亮の荊州のっとり計画
徐庶のような流れ者の不満分子を糾合し、劉備の軍事力を利用して、劉表の長男でありながら蔡瑁ら荊州の有力者たちから嫌われている劉琦を担ぎ上げ、劉表政権を牛耳っている蔡瑁らの勢力を一掃。自分が恩を売った劉琦を荊州の新しいボスに据えて劉備の軍事力で脅しつつ傀儡(操り人形)にし、諸葛亮ら流れ者知識人集団が政権を牛耳り、ゆくゆくは劉琦に劉備への禅譲(地位を譲ること)を迫る。ズバリこれが、諸葛亮の荊州のっとり計画でしょう!
先に劉備に仕えた徐庶の役割
先ほど「徐庶のような流れ者の不満分子を糾合」と書きましたが、徐庶のほうが先に劉備に仕えているので、諸葛亮が徐庶らを糾合すると言うと時系列がおかしいように感じます。これは、彼らが誰にも仕官していない頃から計画を話し合っていたとすればつじつまが合います。
徐庶は脳筋戦争職人の劉備に自分から売り込みに行ってあれこれ吹き込む役で、諸葛亮というすごい人がいますが将軍が下手に出て訪問しないと会えませんとかなんとかもったいつけて、劉備にさんざん下手にでさせて、諸葛亮を招聘したあとも劉備が諸葛亮に頭の上がらないようにさせる道筋をつける係だったのでしょう。劉備に諸葛亮の言うことをなんでも聞かせる下地を作っておかないと利用しづらいですから、この手順は大切です。
三国志ライター よかミカンの独り言
諸葛亮は劉備や劉琦を利用して荊州をのっとったら、そのまま劉備を利用して彼に天下三分の計を実行させて、いずれ自分が三国ともつぶして皇帝になるくらいのつもりでいたかもしれませんよ。その野望については、過去記事の「諸葛亮は皇帝になろうとしていた?諸葛亮の仰天プランとは?」をご覧下さい。
諸葛亮は李厳への手紙で、魏を滅ぼしたら九錫(重臣に特別待遇として与えられる帝王のシンボルアイテム)どころか十でも(※)受けてやるようなことを言っていますから、そのくらいの野心は持っていたことでしょう。荊州のっとり計画は、諸葛亮の野望の、ほんの序章にすぎないのです。という妄想記事、お楽しみ頂けましたでしょうか。余談ですが、九錫どころか十でも(※)、という諸葛亮の言葉遊びは面白いですね。亮さんたら、たまにはそんなシャレも言うんですね。ほっこり。
※「九錫どころか十でも」は直訳ではありません。
原文:雖十命可受況於九邪(十命といえども受くべし、いわんや九においてをや)
正史三国志の李厳の伝の注釈にひかれている『諸葛亮集』より
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