子どもは褒めて伸ばしましょう、という言葉をよく耳にしますよね。子どもの良いところをたくさん見つけ、悪い行いに目くじらを立てるのではなく、子どもの良い行いを積極的に褒め、子どもの自尊心を養おうというもの。褒めて伸ばすというこの子育て方法には賛否両論あるものの、三国時代にそれを臣下に実践し、臣下の力を見事伸ばしてみせたのが孫権だったのでした。
一国だけ立ち位置が微妙な呉
『三国志演義』をベースにした作品から『三国志』の世界に引き込まれた人にとって、蜀・劉備VS魏・曹操という構図は常識ともいえるもの。呉はどっちつかずというか、両者の引き立て役といった感じで影が薄い…。それどころか正史『三国志』でさえも、正統な王朝を魏一国としながらも、蜀の皇帝に対しては地味に皇帝への礼を尽くしているではないですか…!
一国だけ皇帝が完全に諸侯扱いされているかわいそうな呉…。『三国志演義』でも正史『三国志』でも何だか扱いが地味というか雑な気がする哀れな国・呉。
その呉の君主もまた地味なこと。孫堅も孫策も犬死。その後皇帝を名乗った孫権も、蜀の劉備や魏の曹操ほどインパクトのあるキャラクターではありません。もう、蜀と魏だけでよくない?タイトルも『二国史』とかでよくない? そんな声も聞こえてきそうですが、地味だから、不憫だからと侮ることなかれ。呉が地味なのは、その勢力が強大であるため、
呉が地味なのは蜀や魏のように打って出る必要がなかっただけに過ぎません。そんな眠れる獅子ともいえる呉を収めた孫権もまた、地味にすごい人だったのです!
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孫策に召し上げられた呂蒙
呂蒙は貧しい家の子でした。その貧しさが嫌で仕方が無かった呂蒙は、今の生活から抜け出すために、孫策の配下である鄧当をストーキング。鄧当は当然呂蒙を叱りつけ、家に帰るように命じたのですが、呂蒙は頑としていうことを聞きません。困った鄧当は呂蒙の母に呂蒙のことを言いつけます。母親は殺されるかもしれなかった息子の身を案じるあまり、呂蒙を感情的に怒鳴り散らしました。
ところが呂蒙はそれに対して猛反発。「貧しいのはもうまっぴらなんだ。今の状況を打開するには危険を冒してでも武功を立てて、取り立ててもらうしかないんだ!」母親も何も言えなくなってしまったのでした。その後も鄧当軍気取りでいた呂蒙ですが、鄧当軍の一人にからかわれてしまいます。これを受け、頭に血が上った呂蒙は相手を殺害。呂蒙はすぐに逃亡したものの、さすがにまずいと思ったのか自首します。
この一件はなんと孫策の耳にまで届いていました。孫策は呂蒙を一目見て、呂蒙が並々ならぬ人物だと直感。孫策はすぐに呂蒙を側近として召し上げたのでした。
呉下の阿蒙
呂蒙は貴族出身で華々しい経歴を持つ人の中で浮いた存在でした。
幼い頃より経学を学び、その内容までそらんずることができるエリートたちに囲まれながら、文字すら読めない呂蒙はその名「蒙」を「おバカ」という意味に掛けられ「呉下の阿蒙」と呼ばれていました。それでも武略に自信があった呂蒙は「フン、言わせておけ!」と開き直る始末。
ところが、主君・孫権は呂蒙の頭は決して悪くないとわかっていました。そこで、孫権はその才能を寝かせておくのは惜しいと思い、呂蒙に勉学に励むよう勧めます。ムキになった呂蒙は「そんな暇などありません!」と反発しますが、孫権は静かに諭します。「呂蒙、私も忙しい日々の合間を縫って勉学に励んだものだ。お前ほどの器量をもってすれば、絶対にできるはずだ。」
「頭でっかちな博士になれなんて言っていない。お前が勉学してさらに知識を身につければ、まさに鬼に金棒。ますます呉に欠かせない戦力となってくれるだろう。」このように諭され、励まされた呂蒙は猛勉強。彼はメキメキと学問をものにしていったのでした。
男子三日会わざれば刮目して見よ
呂蒙は学者も顔負けの知識をあっという間に身につけました。その成長っぷりは、あの魯粛を「もうあのオバカちゃんじゃない…!」と感嘆させるほど。それに対し、呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」とドヤ顔で返したそうです。
その後、呂蒙は豪傑・関羽を破り、荊州奪還を果たすなど目覚ましい活躍を見せたのでした。
部下の良い所を把握し、自分の体験を打ち明けて、その心に寄り添いながら励ました孫権。呂蒙の心を開き、見事その才能を開花させられた孫権だったからこそ、呉という国を魏や蜀に負けない強国として保つことができたのでしょう。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
元記事:沢山の人材を発掘した呉の孫権
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