実の弟である曹植を生涯にわたってド突き回した意地悪お兄ちゃんのイメージが定着している曹丕。
『三国志演義』では、異母弟の曹熊をビビりあがらせ自殺に追い込み、曹植には七歩歩き終わる前に詩を作れなかったら自殺しろと迫るとんでもない極悪お兄ちゃんとして描かれていますが、彼は実際どのような人物だったのでしょうか?そんな曹丕の軌跡を追ってみたいと思います。
たくさんの息子たちの中の一人でしかなかった曹丕
曹丕は魏の初代皇帝として君臨しますが、元々、曹操にとってはたくさんいる息子のうちの一人に過ぎませんでした。曹丕は元々側室の息子で、正室の丁夫人が息子として育てていた曹昂が曹操の後継ぎと考えられていたのです。
しかし、張繍から奇襲を受けた際、曹昂は未亡人の魅力に憑りつかれて腑抜けになった父を庇い、命を落としてしまいます。そして、これを恨んだ丁夫人も実家に帰ってしまいました。そんなわけで、曹丕の母・卞氏が繰り上げ昇格して正室となり、曹丕が継承者の最有力候補となったのでした。
後継ぎになれると思ったら…
ところが、曹昂が亡くなってすぐに曹丕が継承者として認められたわけではありませんでした。まず、曹操には最愛の息子・曹沖がいました。曹沖は幼い頃から飛びぬけて頭が良く、その上、地位が高い者なら誰も歯牙にかけないような木っ端役人にまで優しく接する徳の高さを持ち合わせていましたから、曹操は曹丕ではなく曹沖を後継者にしたいと考えていたのです。ところが、曹沖はたったの13歳でこの世を去ってしまいます。曹丕は曹沖と大変仲が良かったため、その死を大変悼んでいたのですが、あろうことか曹操がとんでもない言葉を曹丕にぶちまけます。
「私にとって曹沖の死は大きな悲しみだが、お前にとっては大きな喜びなのだろう。これでお前が私の後継者になれるのだからな。」
こんなことを言われてショックを受けない息子がいますか…!?そして更に、曹丕の心をざわつかせる出来事が…。曹植の裸踊りに感銘を受けた(?)邯鄲淳が曹植の素晴らしさを説いて回ったために、曹植を後継者にしようとする臣下たちが暗躍。彼らに散々嫌がらせを受けた曹丕は、曹植への恨みを募らせていきました。
しかし、ようやく曹丕が後継者として曹操に認められる時が来ます。晴れて太子になった曹丕は、曹植とその側近たちに復讐を開始。曹操の死後は曹植を遠方に飛ばし、その側近たちに次々と死を賜ったのでした。
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儒教ではなく文学による統治を
魏王となった曹丕でしたが、その後間もなく献帝から帝位を譲り受けます。献帝からの申し出を十数回辞退して、それでもと言うから仕方なく帝位を譲り受けたということになっていますが、これは形だけのものに過ぎず、実際には献帝から帝位を奪ったと考えるのが自然でしょう。
何はともあれ帝となった曹丕ですが、呉に3度も出兵して全て失敗したために孫権に完全にナメられて皇帝を自称されてしまいます。このように、外征面では失敗続きだった曹丕ですが、彼の内政は安定していたと言われています。そして曹丕は、詩文をこよなく愛した風流人でした。そんな彼の特筆すべき功績といえば、やはり「文章経国」を説いたことでしょう。文章には国を治める力があるというこの考えは、その後漢民族だけではなく日本にも受け継がれ、漢民族を高い文化を誇る民族として長い間高い地位に君臨させ続けました。
三国志ライターchopsticksの独り言
曹丕は帝になってから数年で崩御してしまったがために、それほど多くの功績を遺すことはできませんでした。そのため、彼について酷評する人たちも少なくありません。
しかし、父に冷たく突き放されても、その父の背中をひたむきに追い続け、父の夢を叶えようと奔走した彼の人生は評価されるに値するものであるように感じられます。もし彼がもっと長生きできていたら、魏が蜀や呉を呑み込む日が訪れることもあったのではないでしょうか。
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