呉(222年~280年)の天紀4年(280年)に呉の最後の皇帝孫晧は西晋(280年~316年)の初代皇帝司馬炎に降伏しました。この時、孫晧は司馬炎にあるものを差し出します。それは皇帝の印鑑でした。
普通に考えたら、それは呉の基盤を築いた孫堅が洛陽で見つけたものでしょう。しかし、どうやら素直に頷けない説があるようです。残念ながら正史『三国志』の著者の陳寿は何も語っていません。そこで今回は裴松之が残した史料をもとに解説します。
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孫堅が見つけた玉璽とは?
呉の韋昭が執筆した『呉書』という書物によると初平元年(190年)に孫堅は董卓討伐のために挙兵して洛陽を目指します。やがて到着した孫堅は荒れ果てた洛陽を修復していました。その時、南の井戸から五色の光が出ているという報告が届きました。
不思議に思って探索してみると中から5匹の竜を飾りが付いた印鑑が出ます。それは中平6年(189年)の袁紹たちによる宦官討伐により朝廷から失われた「伝国の玉璽」でした。
複数あった皇帝の印鑑
「伝国の玉璽」とは何でしょうか?
『志林』という書物によると、伝国の玉璽は秦の始皇帝が造らせたものであり、秦滅亡後は漢(前202年~後220年)の劉邦が受け取って、それが歴代の皇帝に継承されていったようです。ただし、それとは別に仕事用の印鑑も存在していました。
それは「天子の六璽」と呼ばれるものです。天子の六璽は「皇帝之璽」・「皇帝行璽」・「皇帝信璽」・「天子之璽」・「天子行璽」・「天子信璽」であり文書によって分けていました。
消えた玉璽と玉璽肯定・否定論
西晋の太康年間(280年~289年)に孫皓は降伏の証明として司馬炎に印鑑を差し出します。ところが、出されたのはなんと「天子の六璽」だけであり、孫堅が洛陽で見つけたはずの玉璽はありません。驚いたことに司馬炎も何もツッコミをしません。
上記の話が記載されている『江表伝』の著者の虞溥は玉璽が無かったことから、孫堅が洛陽の井戸で玉璽を拾ったことを否定しています。正史『三国志』の著者である陳寿もこの件に触れていないことから、信じていないと考えられています。
ところが、先ほど紹介した『志林』の著者の虞喜は「玉璽を差し出さなかったからといって、孫堅の話を全否定するのは違うと思いますよ」とコメントしています。また虞喜は明言はしなかったのですが、孫晧は玉璽を大切に隠し持っており、代々子孫に伝えていると考えているようです。
裴松之もやはり、否定論者でありますが深い考察をしています。
「孫堅は後漢(25年~220年)のために挙兵したのに、その玉璽を持ち帰って公表もしないのは忠義の士というよりも、王朝に対して二心を抱く人物になってしまう。伝国の玉璽が呉に伝わったという話は、逆に孫堅の美徳を傷つけることになる」
また、裴松之は例え玉璽を差し出した話が本当だったとしても、皇帝を辞めて一般人となった孫晧が秘蔵してよいほど玉璽は安い品ではないと結論を出していました。裴松之の言っていることは確かに的を得ており納得出来ます。
現在、孫堅が見つけた伝国の玉璽の話は『呉書』の執筆者の韋昭が国に箔を付けるために捏造したものと考察されています。
三国志ライター 晃の独り言
玉璽について調べていたら、横山光輝氏の『三国志』の玉璽がガチャで登場していたことが発覚しました。色は金・銅・翡翠の3種類。「劉備」「関羽」「張飛」「曹操」「諸葛亮」の5人の絵を押すことが可能です。
お値段は1回に300円。最近のガチャは高いですね。昔は100円か200円程度だったのに・・・・・・個人的に気に入っているのは諸葛亮の「馬鹿者」と叫ぶシーンですね。馬謖が街亭の戦いの敗戦の軍法会議で諸葛亮に言い訳するシーンというのを覚えています。
筆者の三国志に対する愛情が深いことが改めて再確認されました。
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