漫画キングダムでもお馴染みの春秋戦国時代。500年以上も続いた戦乱を勝ち取り、中華を初めて統一した秦王・政は、その偉業をもって史上初めて自身のことを皇帝と名乗りました。中華を統一した始皇帝ですが、彼は休むことなく統一事業に取り掛かりました。
その理由は、長い戦国時代の中で戦国6国はそれぞれに発展を遂げて、各文化を取り入れ乱れている状況だったからです。そこで始皇帝は秦以後の歴代中国王朝の基礎になった、中央集権制を作り上げることにしました。
もし彼が、この統一改革を行わなければ今の中国は、東南アジアやヨーロッパのようにバラバラになっていただろうと言われています。
さて、そんな彼が行った統一事業を今回は紹介してみよう。
関連記事:三国志を楽しむならキングダムや春秋戦国時代のことも知っておくべき!
思想の統一
中華統一後に、政治体制を封建制に戻そうと始皇帝に訴える人物がいました。封建制(ほうけんせい)とは、古代周王朝の政治制度のことです。
周王が一族や功臣、地方の有力な土豪を諸侯とし、一定の土地と人民の支配権を与え統治したシステムのことを言い、中央集権制とは真逆の政治です。
これを古代に理想を求める儒家の誤った考えだと、始皇帝の側近・李斯(りし)は儒家の弾圧を進言しました。始皇帝にとって、自らの政治を効果的に行うために封建制に戻すことは不都合だったのです。
始皇帝は政策を批判する意見を抹殺するため、儒教の経典や書物を燃やし、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺しました。この出来事を焚書・坑儒(ふんしょ・こうじゅ)と呼びます。
関連記事:老荘思想の創設者|老子と荘子の二人を分かりやすく解説してみた
関連記事:キングダム時代に活躍した法家 商鞅と韓非はどんな人?
車輪の統一
秦が統一する前は6カ国とも幅の違う車輪の車を利用していました。当時の道には、車輪による深い溝ができており、車はその溝に沿って走るため、他国の車は簡単に侵入することが出来ません。そこで始皇帝は、このレールの幅が中華全土の交通網を妨げになると考え、車輪の幅を統一することにしました。
特に始皇帝は咸陽を中心に道幅約70mの高速道路(馳道)を造らせました。この高速道(馳道)は普段一般人の立ち入りができない皇帝専用の道路ですが、緊急事態が起きた場合は戦車も走れる軍用道路です。
特に6国(楚・斉・燕・趙・魏・韓)の首都へ通じる道には、中央に9mもの始皇帝専用の道路が敷かれていました。道路の表層は金属製の鎚でたたいて固めてあったと言われており、2200年前に作られた道には今でも樹木が生えない場所があります。
度量衡(どりょうこう)の統一
度量衡(どりょうこう)とは、長さや容積、重さなどのさまざまな物理量の測定のことです。始皇帝は全てを秦国のものに統一させました。これによりモノサシやマスの基準、単位も貨幣も統治されることとなり、経済改革に繋がったのです。
篆(てん)書体を統一
当時、篆書という書体の漢字がありました。文字の大きもバラバラで字も傾いていたりと、現代人の私達から見ても大変バランスの悪い文字です。各地で少しずつ違っていた文字の書体も篆(てん)書体で統一しました。最古の漢字辞典「説文解字」によれば、現代の漢字とは全く違うが、字体の構造は共通する部分もあるようです。
文字を統一したことで情報技術が格段に上がり、中国のどこにいても決まった文字で決まった内容が伝えられるようになりました。情報技術を統一することで多くの人民を統治しやすくなったのです。
関連記事:中国の氏・姓の成り立ちをどこよりも分かりやすく解説!中国の氏・姓の成り立ちをどこよりも分かりやすく解説!
はじめての三国志代表おとぼけの独り言
始皇帝は「民のための理想的な社会」を作ろうとしたわけではありません。その証拠に多くの人民を導入して大土木工事も行い、人民を酷使し、恨みを買っています。
さらに経済や文化政策を積極的に行ったのにも理由があります。「皇帝の命令を全国に正確に早く伝えるため」「税金を正しく納めさせる」など、あくまでも自分の利益に繋がるからです。
しかしながら、秦崩壊後の歴代王朝も始皇帝が取った中央集権制を継続しています。これは始皇帝の考えが以後の王朝にも受け入れられた証でしょう。
始皇帝最大の功績は「中国」という概念とアイデンティティを確立したことではないでしょうか。6カ国を滅ぼし統一した秦は、始皇帝死後、すぐに崩壊しますが、新たな英雄が現れても中華統一の指向性は変わっていません。たとえ彼の行った行為(自分を批判した学者を片っ端から処刑・焚書したり)が暴君として取り上げられても、優れた功績を残したこともまた事実。
自分のためにやってきたことが結果的に、後に大きな利益を還元する。始皇帝の考え方はあながち間違っていないと私は思っています。(おぃ)
—熱き『キングダム』の原点がココに—