郭淮と陳泰は魏(220年~265年)の将軍です。郭淮は蜀(221年~263年)の諸葛亮の第1次北伐である「街亭の戦い」で活躍したことで名を挙げて、それ以降は蜀と戦います。陳泰は曹丕から信頼を受けていた陳羣の息子です。
さて、郭淮と陳泰にどのような関連があるのか初めて名前を聞いた人は、ピンときません。筆者も最初はその1人でした。実はこの2人は関連があったのです。そこで今回は小説『三国志演義』をもとに郭淮と陳泰が姜維の北伐を防いだ話を解説します。
「郭淮 陳泰」
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姜維の北伐
魏の正始10年(249年)に司馬懿は政敵である曹爽とその一派の誅殺に成功しました。
「高平陵の変」と呼ばれる事件です。この事件で自分に危害が及ぶことを恐れた夏侯覇は蜀に亡命しました。
蜀の第2代皇帝劉禅の皇后の母親が夏侯覇に親族に当たるので、それをツテに亡命したのです。魏の地理に明るい夏侯覇が来てくれたことで蜀の将軍の姜維は大喜び!諸葛亮が果たせなかった北伐がこれで出来るはず。
早速、劉禅に頼んで出兵することに決めました。だが、これには費禕が反対しました。なぜなら蜀では蔣琬・董允といった人物が相次いで世を去っており、人材が乏しくなっていたのです。
費禕はなるべく国力の温存に努めることにしていました。ましてや諸葛亮が出来なかった北伐が、自分や姜維に出来るはずがないと考えていたのです。ところが姜維はこの忠告を無視して北伐を決行しました。
郭淮の出陣
蜀の延熙12年(249年)に姜維は北伐を開始します。姜維は麹山に城を2つ築いて、李歆と句安の2人を主将に任命しました。さらに姜維は羌族と連携して魏に当たる作戦も立てました。
報告を聞いた郭淮と陳泰は一緒に出陣します。この2人は若い時は羌族の反乱鎮圧や統治をしており異民族の扱いに長けていました。そのため姜維が羌族と連携する話を聞いても、付け焼刃の策なのでどうせ失敗すると見ていました。
また、2人は李歆と句安が守っている2つの城に注目しました。城が高い地形に築かれているので水を遮断されたら終わり・・・・・・要するに街亭の戦いの時と同じです。郭淮は街亭の戦いにも従軍していたので、同じ作戦を使いました。
郭淮と陳泰は川をせき止めて、城内に水が入らないようにします。案の定、城内は大混乱!李歆は急いで出陣しますが、そこを郭淮たちに攻撃されました。途中から句安が援軍に現れますが、歴戦の猛者である郭淮の前に2人はあっけなく敗走!仕方なく李歆だけ包囲を突破して姜維に援軍を頼みにいきました。
牛頭山の戦いと姜維の撤退
重傷を負いながらも李歆は姜維のもとに到着して現状を報告します。李歆はその後、戦闘不可能と判断され療養のために本国送還となりました。姜維は夏侯覇と相談の結果、牛頭山を迂回して長安を攻撃することを決定します。
だが、この作戦を郭淮と陳泰は読んでいました。陳泰は牛頭山に陣を張ると姜維を待ち構えて迎え撃ちます。姜維も牛頭山を包囲して陳泰を孤立させますが魏軍の防御は堅固であり、びくともしません。日数が経過するうちに今度は郭淮と司馬師が姜維の背後に迫ってきました。
挟み撃ちをくらうと判断した姜維は急いで牛頭山の包囲を解除して撤退しますが、そこを陳泰が急襲!さらに郭淮と司馬師も援軍として到着します。姜維はすぐに近くの城に命からがら逃げこみました。それから間もなくして、麹山の城で防戦していた蜀軍の句安は援軍の到着の見込み無しと判断して、郭淮に降伏しました。
句安の降伏を聞いた姜維もこれ以上の戦闘継続は無意味と判断。やむを得ず撤退しました。こうして姜維の北伐は郭淮と陳泰のタッグの前に阻まれたのでした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が郭淮と陳泰が活躍した牛頭山の戦いでした。郭淮はこの戦いから6年後の北伐で姜維と戦って討たれてしまいます。しかし、それは小説『三国志演義』の架空の話です。
『三国志演義』は蜀が正義ですので、魏の人には厳しい扱いなのです。郭淮は近年、KOEIの「真・三国無双」シリーズでもキャラクターとして登場するようになりました。
最近気付いたのですけど、無双シリーズの郭淮が芸人の又吉直樹さんに似ていると思いました。もしかして狙って作ったのでしょうか?
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郭淮が好き、もしくは陳泰が好きという人はコメントをください。
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