劉琦は荊州牧劉表の長男で元々は後継者でしたが、次男の劉琮を推す豪族の蔡瑁一派のせいで讒言を受け後継者から脱落、親の死に目に会えないなど冷遇されますが、劉備に接近して諸葛亮の助言を受けた事で、殺される事なく短いながら天寿を全うした二級人物です。史実では気が弱くも優しく聡明で親孝行な劉琦ですが、早死にした為に、三国志演義では劉備一派のコマのような扱いをされている残念な人でもあるのです。
関連記事:劉琦の性格とは一体どんなだったの!?
この記事の目次
父に似ていたが弟が生まれ疎んじられる劉琦
劉琦には、まとまった列伝が立てられていませんが、後漢書劉表伝、三国志諸葛亮伝、同先主伝に記述があります。出身が兗州山陽郡高平県とあるので、生年不明ですが劉表が荊州に入る前に生まれた人物だと推測できます。しかし、母の名は不明というので、生母の身分は卑しかったのかも知れません。
劉琦は父、劉表に風貌が似ていたと言います。父の劉表は身の丈八尺で威厳のある顔だったそうなので当時としてはイケメンだったのでしょう。ところが劉表が荊州牧になった為に運命が変わります。劉表が荊州の安定統治の為に地元の豪族、蔡瑁の妹の蔡夫人を後妻にし、やがて夫人が劉琮を産むと、夫人は我が子を後継者にしようと劉琦の悪口を言いまくったので、劉表も劉琦を疎んじて劉琮を可愛がるようになります。
これだけ見ると劉表をたぶらかした蔡氏が悪そうですが、実際は劉表も豪族の蔡氏を無視して権力を安定させる事は出来なかったので、荊州に入った時から母を亡くし後ろ盾のない劉琦の廃嫡は決まったようなものだったと思います。
孔明を欺き身を守るアドバイスを得る
しかし、蔡夫人の讒言は劉琦を疎んじるだけでなく、劉琦を害しようとしたようです。困った劉琦は親しく付き合っていた客将劉備の参謀である諸葛孔明にどうすればいいですか?と聞きますが、お家騒動は犬も食わないと孔明は答えません。そこで、劉琦は孔明を誘って高楼に登ると部下に命じて梯子を取り外させ、孔明に言います。
「あなたはご自身の助言が他人の耳に入り劉備殿を困らせるかも知れないと恐れておいでなのでしょう、しかし、ここならば、あなたの言葉が私以外の耳に入る事はない」
そこで、諸葛亮は渋々「あなたは、晋の献公の息子の申生が晋に留まった為に驪姫の策謀を免れずに殺され、重耳が外に出て安全だった事をご存知ではないですか?」と助言。劉琦はこの助言で悟り、ちょうど江夏太守の黄祖が孫権に殺され太守不在になったのをチャンスと劉表に後任を願い出て江夏太守に転任します。つまり驪姫の策謀から逃れて晋から脱出し命を全うした重耳の故事に倣ったのです。
江夏に劉琦が転任したので蔡瑁一派は劉琦が後継者になる事を諦めたと見て、それ以上迫害しなくなりました。いかに自分が殺されそうとはいえ、諸葛亮の沈黙の理由を察知し高楼に登り梯子を外して完全に二人きりになるという奇策を編み出したのは、劉琦という人が、なかなかな知略を持っていた一つの証拠になるでしょう。
日々の生活を工夫で楽しくする『三国志式ライフハック』
劉表の危篤に会えずブチ切れる
江夏太守になった劉琦ですが、西暦208年に劉表が危篤になったと聞くと、元々親孝行な人物なので驚いて襄陽に帰省します。ところが、それでざわついたのが蔡瑁一派、ここで劉琦と劉表を会わせると病気で気が弱っている劉表が「やっぱり劉表を後継者に・・」なんて言いかねないので、屋敷の門を閉じてしまいます。
そして「将軍はあなたに江夏鎮撫の重任をお任せになったのに、それを放り出して私心を優先して帰ったと聞いたら激怒され体を悪くされます。それは親不孝ではありませんか?」と説得し、劉琦は言い返せずに江夏に帰ってしまいました。間もなく劉表は死に、蔡氏の狙い通りに劉琮が後継者になります。劉琮は後継者になると江夏太守の印綬を劉琦に送りますがそれを見た劉琦は印綬を床に叩きつけて怒りました。
「なんだこの印綬は!私が後継者争いから退いた事を、ハンコ一個で報いたつもりか!なんと愚かな連中だ、私は後継者の地位に未練はなかった!ただ父を見舞いたかっただけなのに・・」劉琦は、色々な事が嫌になり現在の地位を捨てて荊州を出て行こうと考えます。弱気で大人しい劉琦が一瞬見せた心の激しさです。
劉備と合流し結果として荊州の一部を保全する
しかし、劉琦が出奔しようとしたその時、曹操軍が荊州に侵攻したので劉琦は長江の南に避難します。同時期に樊城に駐屯していた劉備も長坂で敗北、劉琮は曹操に降伏してしまうのです。その後、劉備は夏口に逃れ、ここで劉琦が率いていた1万人の兵士と合流、劉備は孫権と結んで赤壁で曹操を破ります。
一部とはいえ、荊州を保全した劉備は劉表の嫡男である劉琦を荊州刺史として献帝に上奏しました。かくして、劉琦は後継者争いから降りながら荊州の一部を領有するという数奇な運命を担う事になるのです。ところが、生来病弱な劉琦は翌209年に病気にかかりあっさりと死んでしまいました。こうして荊州の南は、劉琦を除いては劉表と血縁が最も近い劉備が相続する事になりました。
三国志演義ではコマ扱いの劉琦
さて、そんな無能とも飛び切り有能とも言えない二級人物の劉琦は三国志演義では、ほとんどコマ扱いです。序盤は正史三国志や後漢書の記述に準じた扱いで、気が弱いが聡明で蔡瑁一派に迫害されて、劉備に接近し諸葛亮の助言を受けるまで同じですが、赤壁の戦い後は、劉琦の存在が劉備が荊州を領有する正統性にされてしまい、存在だけが重要で中身はどうでも、という荊州領有のコマのような扱いになります。
そして、史実ではそうとは書いていませんが、演義の劉琦は、どういうわけか酒に溺れて体調を崩し左右に抱えられないと満足に歩けない病人として描写されるのです。孔明は、荊州九郡を返せと催促する魯粛に劉琦を見せる為に、江夏にいた劉琦を南郡に呼び寄せる強行軍をさせ、「元々荊州は劉表殿の土地だから息子の劉琦が統治して当然」と魯粛に反論。さらに劉琦が退出した後に、魯粛が「では劉琦殿が亡くなればどうなさる」と孔明に聞くとその時は東呉にお返しするとの言質を与えています。
魯粛は呉に帰ると周瑜に「劉琦は酒に溺れて体を害し病膏肓に入り、頬もこけ、息をするのも苦しそうな有様、もう半年ももたないでしょう」と報告しますが、それから間もなく将星が落ちたとして諸葛亮が劉備に劉琦の死を告げ劉備はひとしきり泣いてから、関羽を襄陽に派遣して喪を済ますという扱いで劉琦の出番は終了します。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義の劉琦は前半と違い赤壁以後は、ああ、こいつ死ぬんだな、死ぬんだろ、はいはい、分かってんだァ、というようなおざなり展開で死の床に就き予定調和で死んでいきます。正史のように印綬を床に叩きつけるような激しさがないのが寂しいですね。
関連記事:劉琦はどうして毒殺されなかったのか!?【素朴な三国志疑問】