張郃(ちょうこう)は、魏の五大将軍では損な役回りです。史実で張飛(ちょうひ)に敗れた事をネタに演義では突然賢くなった張飛に翻弄されて逃げ回り、漢中争奪戦では出る度に孔明(こうめい)の計略の前に負け続けて、魏の幕僚からも呆れられるというような咬ませ犬の扱いに甘んじています。
しかし、それは演義の蜀アゲ、孔明アゲの虚構であり魏将の中でも張郃ほどに蜀に恐れられた名将はいなかったのです。
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長い長い張郃の戦歴、黄巾賊討伐から参加
張郃、字は儁乂(しゅんがい)は冀州(きしゅう)河間郡(かかんぐん)鄚(ばく)県の人です、生年は不詳ですが西暦231年まで生きました。しかし黄巾賊征伐の義勇兵から出発している事から西暦184年で20歳としても164年生まれですから、最低でも67歳位までは生きた事になります。早くから武勇で名を挙げた張郃は、最初、冀州を支配していた韓馥の配下になります。
群雄とは思えない意気地なし韓馥(かんぷく)に愛想を尽かす
この韓馥ですが乱世の人物として産まれたのが可哀想な位の意気地なしでした。元々、汝南袁家に仕えていた韓馥は、袁紹(えんしょう)が大の苦手でした。そこに目を付けた袁紹が武力を背景に「俺が代わりに公孫瓚を倒してやるから冀州を俺に寄こせ」と恫喝すると、それに逆らえず、一戦もしないで冀州を与えてしまいます。
その時点では韓馥の力が上なのに、袁紹と公孫瓚(こうそんさん)が怖い韓馥は、部下の反対を押し切って袁紹の配下になってしまったのです。韓馥の意気地無しぶりに呆れた、部下は一部を除いて袁紹につきます。張郃も、この時に韓馥に愛想を尽かします。
ちなみに韓馥は、袁紹の配下になったものの、「いつか殺されるのでは」と怯え張邈(ちょうばく)を頼り逃亡その後、袁紹の使者が張邈を尋ねると、「自分を捕えに来た」と勘違いして、トイレに行き首を吊って自殺しました。産まれた時代が悪かったとしか言いようがない最後でした。
張郃、公孫瓚との戦いで手柄を立て、寧国(ねいこく)中郎(ちょうろう)将に
袁紹の配下になった張郃は、その武勇を遺憾なく発揮して、公孫瓚を滅亡させるのにおおきな貢献をし、袁紹は張郃を寧国中郎将に任命しました。西暦200年、袁紹が圧倒的な大軍を擁して、献帝を抑える曹操(そうそう)と天下分け目の官渡の戦いに突入すると、張郃は「曹操と正面から戦う必要などありません、軽騎兵を南方に配置して敵軍を攪乱し情報が許昌に届かないようにすれば、曹操は敗走しましょう」と進言します。
ですが、白馬、延津の戦いで敗戦してプライドが傷ついている袁紹は、大軍で、劣勢の曹操を踏みつぶして、ちっちゃい曹操をさらにぺしゃんこにするという作戦にこだわり張郃の進言を無視しました。
張郃の進言が通っていれば、曹操は撤退していた?
官渡城で籠城していた曹操が食糧の乏しさから不安になり退却をほのめかす手紙を書いて荀彧(じゅんいく)に叱られた逸話はとても有名です。
もし、袁紹が張郃の作戦を採用していれば、曹操の手紙も荀彧の手紙も届く事はなく弱気になった曹操は退却し官渡の戦いは袁紹の勝利だったかも知れません。
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