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張郃、烏巣を救援するように進言するも郭図が反対する
官渡の戦いが膠着状態になった頃、袁紹軍の許攸(きょゆう)の投降で烏巣に袁紹軍の食糧が積まれている事を知った曹操は、手勢を率いて烏巣を襲撃します。その情報を知った張郃は、ただちに精鋭の騎兵で烏巣を救援すべしと袁紹に進言します。ところが、これに同僚の郭図(かくと)が猛反対します。郭図「烏巣は淳于瓊(じゅんうけい)が守っているので持ち堪える、むしろ、この隙に曹操の本陣に総攻撃を仕掛けるべし」
張郃「ばかな!曹操の本陣は、そう簡単には落ちない。それより烏巣を救うべきだ、食糧を焼かれてはどうにもならぬ!」
優柔不断な袁紹は、どちらの意見も聞き、軍を二手に分けて、軽装の騎兵を烏巣に、重装備の歩兵を曹操の本陣に向けるという作戦を執りました。
そして、何故か曹操の本陣攻めに反対していた張郃に曹操の本陣攻撃を命じます。張郃は、部下の気持ちを汲めない袁紹の決断力の無さに呆れます。
事態は張郃の予想通りの最悪のパターンを辿り曹操は烏巣の食糧庫を焼き払い、張郃の必死の戦いでも曹操の本陣はおちませんでした。
張郃「終わった、、もう何もかもおしまいだ!!」
敗北を悟った張郃は、同僚の高覧(こうらん)と共に曹操に降伏しました。
曹操、降伏した張郃をヨイショ(笑)
最初、張郃の降伏を曹洪(そうこう)は信じず、城門を開けませんでしたが、袁紹軍の情報を察知していた荀攸(じゅんゆう)が、「張郃は自策が入れられず、袁紹を見限ったのだ」と説明したので、ようやく降伏が受け入れられました。
曹操は、張郃の降伏を喜び、また得意のヨイショをします。
「伍子胥(ごししょ)は自分が誤った君主に仕えたことに気がつくのが遅かったのであのような悲劇の最期を迎えた。君が私に降伏したのは微子啓(びしけい)が殷を裏切り周に仕え、韓信(かんしん)が項羽(こうう)の下を去って劉邦(りゅうほう)に仕えたような真っ当な行動だ恥じる事は何も無い!」
ろくでもない君主に仕えて、悲劇の運命を迎える位なら有徳な君主(曹操の事ね)に仕える方が正しい行動だと曹操は過去の歴史を引いて諭したのです。でもなんだかんだで、最後は自分を持ち上げる自分大好き人間曹操です。(笑)
張郃、曹操軍の将軍として大活躍をする
曹操の配下になった張郃は、古巣だった袁紹の息子、袁譚(えんたん)を攻撃し撃破、袁紹軍の本拠地であった鄴を奪取します。207年には、苦難の行軍を乗り越えて、烏桓(うかん)攻めを張遼(ちょうりょう)との二枚看板で行い手柄を立て、208年の荊州征伐では、張郃は于禁(うきん)、張遼、朱霊(しゅれい)、李典(りてん)、路招(じしょう)、馮楷(ふうかい)の六将軍と共に、章陵太守・都督護軍(ととくごぐん)の趙儼(ちょうげん)の指揮下に入っています。この頃には、魏軍の主力メンバーとして活躍していた事が分かります。
西暦211年には、潼関(どうかん)の戦いで馬超(ばちょう)や韓遂(かんすい)と戦いこれを撃破しています。この戦いで曹操が馬超の騎兵に急襲されて危うく討たれそうになった時は、椅子に座り、結構のんきしていた曹操を捕まえて船に放り投げ脱出させるという大手柄を立てます。曹操は、船では許褚(きょちょ)に守られながら、戦場を離脱しました。
漢中では、張飛(ちょうひ)に敗れるも、夏候淵の死後に全軍のまとめ役に
漢中攻略戦では、張魯(ちょうろ)を降して漢中を支配した後、巴東、巴西の二郡を下し、その住民を漢中に移動させていましたが、その途中で張飛と交戦して、長く伸びた兵力を分断されて敗れるという手痛い敗北を喫します。
蜀軍は地の利と名軍師法正(ほうせい)の献策を入れて順調に漢中を制圧して、定軍山では、老将黄忠(こうちゅう)が夏候淵(かこうえん)を討ち取るという大勝利を得ます。しかし、劉備は張郃の首を取れなかったと聞くとがっかりしたと言われます。猛将、夏候淵より劉備は張郃を恐れていたのです。
一方、総大将である夏候淵を失った魏軍も動揺していました。この時に、夏候淵の副官の郭淮(かくわい)は「今の魏軍をまとめられるのは、敵将劉備さえも恐れている張郃将軍をおいて他にはいない」として、張郃を臨時の総大将に推しています。
諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の北伐でも司馬懿と共に活躍
張郃は、曹操の死後も曹丕(そうひ)、そして曹叡(そうえい)にまで仕えました。呉と蜀と国境が重なる戦略の要衝である荊州を司馬懿(しばい)と共に守備しつつ蜀呉の攻撃に備えました。
第四次の北伐である祁山(ぎざん)の戦いでは蜀軍が祁山を包囲、魏軍は、祁山を解放すべく司馬懿の軍が諸葛亮を追い、張郃が王平(おうへい)を追撃してそれぞれ失敗しています。
ところが、間もなく蜀軍は食糧不足から撤退を開始、それをチャンスと見た張郃は、蜀軍を追撃しますが、木門(もくもん)という所で蜀軍が迎撃に転じて交戦状態になり、その時に流れ矢が右ヒザに刺さり戦死します。曹叡は、壮侯と諡号して、歴戦の勇者の死をことのほか悲しんだそうです。
三国志ライターkawausoの独り言
長い戦歴を誇る張郃は勝ち戦が多いのですが、一方では張飛に敗れるなど敗北のケースもあります。が、張飛のケースでは、住民を漢中に移している間の出来事であるなど戦争に集中できない場面での敗戦になっていて、本来であれば張飛にもひけはとらなかったでしょう。張郃の戦略は変幻自在であり、状況や地形を考慮して作戦を立てて、失敗した事はないと言われる程に強力でした。劉備や孔明までが張郃を恐れていたという事実は、ただの猪武者ではない張郃の凄さを物語っていると言えます。今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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