誰もが必要だとは理解していますが、できれば払いたくないものが税金です。
おおよそ、国家というものが成立した時から税は登場し、
私達納税者は、何千年と決められた金額や物を支払ってきました。
もちろん、それは三国志の時代も例外ではありませんが、
この時代に税金の形は大きく変化しています。
この記事の目次
漢の時代から、税金には様々な種類があった
文献によれば、漢の時代には、複数の税金が住民に課せられていた事が分かります。
それらは、人頭税・土地税・財産税・商税・畜税・労働税(徭役)・兵役・鉱林漁業
に関する税など多岐にわたりました。
当時の徴税の単位は人頭税と言われ、個人個人に税が掛けられていました。
記録によれば、初期は15歳から60歳までの男女に一律で120銭を納めさせる
一算と数え3歳から14歳までの男女に20銭を納めさせる口銭がありました。
また、女性は早期に嫁にいかせる考えからか15歳から30歳までの未婚女性には
5算つまり750銭が課せられました。
それから、生産力がない奴裨(ぬひ:奴隷)にも2算240銭が課せられましたが、
これは、贅沢税の一部として、所有者が支払ったのでしょう。
ちなみに、当時の一銭の価値ですが、色々資料がありますが、330円程度だそうです。
それで考えると、当時の15歳から60歳までの男女の税金は、39600円で、
結婚していない15歳から30歳までの女性は198、000円という事になります。
もっとも庶民の税はこれだけではなく、労働税や兵役として、
一年間に1カ月づつ、合計2カ月の義務が課せられました。
これは、お金を納める事で逃げられましたが労働税は1月300銭で10万円位、
兵役の代行には2000銭、660、000円も必要でした。
当然、貧乏な庶民には払える金額ではありません。
当時の人々の大半は農民だったでしょうから徴税の負担は兎も角、
労役や兵役で働き手を取られてしまうのは大打撃でした。
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後漢末の動乱時代、税収はどうなったの?
後漢の末に入ると、霊帝の売官許可で倫理が崩壊して、汚職が当たり前になります。
税金を払えなくなった人々は、ついに田畑を捨てて逃げてしまう事態になりました。
おまけに黄巾の乱が勃発すると、黄巾賊に田畑を荒らされ、財産を奪われた人々は、
何百万という規模で流民になり、一部は山賊になり田畑を荒らし、一部は、
戦乱の無い土地を求めて中国大陸を逃げ回りました。
こうして、個人、個人を戸籍で記録していた漢の税制は崩壊してしまい、
必要な税金が入らなくなり政権は弱体化していきます。
逃げた流民はどうなっていったの?
では、逃げていった流民はどうなっていったのでしょうか?
これは、各地で群雄として割拠するようになった豪族に吸収されて私有民になりました。
日本の平安時代の荘園のように、群雄が流民を囲い込んで畑を耕させて、
その農作物を税として徴収するようになったのです。
流民は、もちろん、兵士にもなり、群雄の勢力争いに利用されます。
こうして戸籍の無い何百万という人々が誕生していきます。
群雄でもぶっちぎりの貧乏だった曹操の考えたアイデア
三国志の最大の英傑である曹操(そうそう)ですが、彼が支配した兗(えん)州と
豫(よ)州は、中国の中心地ではありますが、戦乱の被害をまともに受けている
地域でした。荒れ果てた土地からは、続々と住民が出てゆき、
人口減少に歯止めが掛りません。
曹操の武帝紀には、兵糧が不足して戦争が停戦になった事が何度も出ますが、
それは、この深刻な人口不足も影響していたのです。
曹操は、この人口不足を補おうと考え、屯田制を思いつきます。
屯田自体は、秦の時代から辺境を警備する兵士の自給自足として制度化しますが
曹操は、これを流用して、荒れ果てた兗州と豫州を立てなおそうとしたのです。
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曹操、軍屯と民屯を募集するが、だれも集まらず・・
曹操は、農耕に必要な農具や種もみ、牛まで貸し与えて、荒地を貸与するという
触れこみで屯田の募集を掛けますが、当初は集まる人はいませんでした。
それも無理のない事で、土地は農民のものではなく、飽くまでレンタルで、
しかも、税率は50~60%という高率だったからです。
これは当時の小作人とほぼ同じ条件だったので、いかに喰えなくても、
他所に行った方がいいと考える人が多かったのでした。
やけになった曹操は、戦争で支配した地域の住民の一部を無理矢理引きはがし
屯田民にしたりしたので、脱走者が続出するなど苦労しました。
それでも、曹操が、税金の納め方を銭ばかりではく物納や、労働力の提供でもよいと
制度を改めたり農政官の努力により、屯田制は次第に根付いていきます。
曹操は、漢の時代の人頭税を改めて、納税義務を家族、戸制にします。
一家を連帯責任にして、助けあわせて徴税を円滑にしようとしたのです。
ずるい曹操、軍屯と民屯以外の農民には大減税!
屯田制により高額の税金が懐に入るようになると、曹操は逆に、
一般の農民の税金を大幅に減税するようになります。
その税率は、何と収穫物の1%という破格の低さです。
これは、軍屯や民屯に高額の税率を課す事で可能になるのですが、
曹操の税金の安さに、各地から大金持ちや資産家、一般の農民が、
続々と兗州、豫州に移住するようになります。
こうして、ぶっちぎりの貧乏だった曹操は、多くの人口を集める
ようになり、スーパー金持ちに変身するのです。
ちっ、屯田民をイジメて、他には良い顔しやがって、ずるいよな、あのチビ・・
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民屯は廃止されるも、曹操の考えた戸制の徴税は存続する
曹操没後も、屯田制は維持されますが、司馬炎(しばえん)が魏を滅ぼして、
晋を建国すると屯田を廃止して一般の戸籍に編入します。
これにより、晋の人口は500万人から二倍以上に増加したと
言われていますから、いかに屯田民が多かったかが分かります。
しかし、晋も曹操の採用した戸制の徴税システムは維持しました。
そればかりか、曹操の戸制での徴税システムは、以後長い間、
徴税の基本システムとして存続していくのです。
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三国志ライターkawausoの一人言
現代の日本でも、徴税は世帯ごと、つまり戸制で人頭税ではありませんが、
これは、奈良時代に租庸調が唐から導入された時の徴税の単位が、
個人ではなく、戸制だった事にも関係があります。
この唐の租庸調も、戸制で税金を割り当てていて、
曹操が定めた、戸制を踏襲したものでした。
三国時代以前は、税金を納めるのは個人ごと、しかも銭納でした。
それを曹操は改めて、税金は一家ごとにしてしかも、
税金の形態も、銭納か、労働力の提供か、織物のような物納か
納めやすい方法でよいとしたのです。
つまり、日本の税制はその導入時期に間接的に曹操の影響を受けている
と言えない事もないわけです。
今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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