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楊俊とはどんな人?人材鑑定眼で曹丕に恨まれ殺された足長オジサン

2020年3月30日


 

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曹操と荀彧

 

どんな人にも人生の恩人という人は一人はいると思います。先輩のお陰で今の仕事を得た。恩師の助言で今の自分はある等、三国志の時代にも不遇な立場にある人材を見出して次々と登用し、非常に感謝された楊俊(ようしゅん)という人物がいました。

 

曹丕と曹植

 

しかし、彼は影響力がある故に曹丕(そうひ)(うと)まれ悲劇の最期を迎えます。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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辺譲に師事し、数千人を戦乱から救う

楊俊

 

楊俊は(あざな)季才(きさい)と言い、河内郡獲嘉県(かだいぐんかくかけん)の人です。陳留の辺譲(へんじょう)に学問を習い高く評価されています。やがて、黄巾(こうきん)の騒乱が勃発、河内は四方に道が通じる交通の要衝であり、かならず騒乱に巻き込まれると踏んだ楊俊は、老人や若者を救いつつ、山の中へと避難します。付き従ったのは、百余軒というので、数千人にはなるでしょう。

 

楊俊は、貧乏な人間には物資を融通(ゆうづう)して脱落者が出ないようにし、親族旧知の家で、人さらいに(さら)われて奴隷化された人々を財産を傾けて買い戻しています。楊俊の行動は、多くの人々を戦乱から救ったのです。

 

司馬懿、王象、司馬芝を見出す

司馬懿と曹操

 

楊俊は、十六、七歳頃の司馬懿と出会い、これはタダモノではないと評しています。また、当時、司馬氏では、特に司馬朗(しばろう)の名声が高く、司馬芝(しばし)は知られていませんでしたが、楊俊は早くから、司馬芝の内実は司馬朗を上回ると高い評価をつけていました。事実、司馬芝は河南尹(かなんにん)として大きな功績を残し、官位も大司農(だいしのう)九卿(きゅうけい)まで昇進します。その名声は晋の時代まで語り伝えられたそうです。

 

同年小録(書物・書類)

 

また、後に楊俊は并州(へいしゅう)に逃げますが、そこで没落し、人の奴隷として羊飼いをしている王象(おうしょう)に出会います。王象は十七、八歳ですが、学問好きで羊飼いの仕事の(かたわ)らで隠れて書物を読み、雇い主に(つえ)(むち)で打たれていました。

 

楊俊は、王象の人柄を見て、これを気に入り、お金を出して身分を買い戻し自由の身にして家に置いて学問をさせ、嫁まで世話して一家を構えさせてから別れました。まさしく三国志版足長オジサン、王象は楊俊の善意に感謝し死ぬまで恩義を持ち続けます。

 

曹丕との確執

曹丕にビビって意見を言えない家臣達

 

曹操は楊俊を見出し、曲梁の令にします。そこから楊俊は中央に入り丞相掾属(じょうしょうじょうぞく)となり、茂才(ぼうさい)として推挙をうけて、安陵(あんりょう)の令になり、南陽の太守となります。そこで楊俊は学校を建てて、道徳を説いて民衆を教化したので人民に(した)われる事になります。

 

さらに楊俊は征南軍師、中尉(ちゅうい)(盗賊等を取り締まる首都警察)に転任しますが、その頃、魏諷(ぎふう)の乱が発生、この反乱には高官の子弟が多く参加していて、宋忠の子や王粲(おうさん)の二子、劉廙(りゅうよく)の弟劉偉(りゅうい)張繍(ちょうしゅう)の子の張泉(ちょうせん)が処刑されます。また鍾繇(しょうよう)は魏諷を推挙した事で免職になり、楊俊は中尉でありながら反乱を未然に防げなかった事を理由に自分で自分を告発し、やがて左遷(させん)されました。

 

しかし、楊俊から暇乞(いとまご)いを受けた曹丕は明らかに不機嫌な顔で言いました。

「楊中尉、このまま去られるとは、たいそう気高い事ですなぁ・・」

 

この言い方、明らかに部下をいたぶり殺す黒曹丕になっています。

さて、どうして楊俊は曹丕に(うら)まれたのでしょうか?

 

曹植と仲が良かった事が仇に

曹植は軟弱ではなかった曹植

 

楊俊は、人物鑑定の確かさで名声を得ていましたし、それを本職としていました。彼が見出した人材は、審固(しんこ)衛恂(えいじゅん)のような元兵卒でも太守や御史(ぎょし)になったのです。ある時、曹操が内密に、自身の後継者は曹丕と曹植のうち誰がいいかと楊俊に聞いた事があります。

 

曹植

 

この時、楊俊は曹植と仲が良かった事もあり、結論では、いずれも甲乙つけがたしと言いつつも、トータルでは曹植が優れていると回答してしまいます。

 

曹丕「おいおい!何、子建(しけん)()してくれてんだよ、てめえ・・これで親父の腹が決まったらどうしてくれんだ」

 

この事が、曹丕の耳に入り曹丕は楊俊を強く恨むようになるのです。人物鑑定家としての名声が、皮肉にも楊俊に(わざわい)を招く事になりました。

 

些細な罪で処刑される楊俊

洛陽城

 

西暦222年、文帝(ぶんてい)として即位した曹丕は、南の(えん)に行幸しました。曹丕はそこで、宛の市場があまり賑わっていないと難癖(なんくせ)をつけ、南陽太守だった楊俊を逮捕し死刑を宣告します。

 

驚いた司馬懿と王象、荀緯(じゅんい)がやってきて床に頭を叩きつけて血だらけになりながら、楊俊の助命を請いますが、曹丕は耳を貸さず楊俊も諦めて自殺しました。世の人々は、これは冤罪(えんざい)だとして楊俊の為に嘆かない人はなかったようです。

 

魏略に出てくる曹丕の冷たさ

曹植を暗殺しようとした曹丕を止める卞皇后

 

一方、正史三国志楊俊伝が収録する魏略には、さらにエグイ曹丕の言葉が残っています。宛に到着した曹丕の馬車ですが、手違いで宛の令は城門を閉じていました。曹丕は激怒し、「(ちん)を盗賊と思ってか!」と叫んで、宛の令と太守の楊俊を逮捕しました。散騎常侍(さんきじょうじ)だった王象は、このままでは恩人の楊俊が殺されると恐れ、地面に額を叩きつけて血だらけになりつつ助命を請います。

 

しかし、曹丕は顔色も変えず禁中に戻ろうとしたので、王象は必死で思わず曹丕の衣を掴んでしまいます。すると曹丕は、

 

「朕は、(けい)が楊俊と通じている事はよく知っているぞ。だが、朕と楊俊は同じ天地に並び立つ事は出来ないのだ。

さあ選ばれよ、、卿は朕につくのか?楊俊につくのか?」

 

決して楊俊を許す気がない曹丕の態度に王象は戦慄(せんりつ)し、思わず衣を離してしまいます。曹丕は、そのまま楊俊に死罪を申し付け、王象は楊俊を救えなかった事を気に病み、まもなく病死しました。

 

三国志ライターkawusoの独り言

kawauso 三国志

 

たった一言、曹植が曹丕に勝ると言ってしまったばかりに、曹丕に恨まれ殺される事になった楊俊、まさに口は禍の元、なまじ優秀な人材鑑定が出来たばかりに命を縮めてしまったと言えますね。

 

参考文献:正史三国志

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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