『三国志演義』で蜀(221年~263年)の章武2年(222年)に関羽の敵討ちを名目に呉(222年~280年)へと出兵します。この時、五虎大将軍の1人である黄忠は呉の潘璋の陣に奇襲をかけるも、矢傷を負ってそれがもとで亡くなりました。
もちろんこれは『三国志演義』のウソ。史実の黄忠は2年前に病気により他界。さて、黄忠の死の原因となった潘璋とは何者でしょうか?
後世の小説やマンガのためか、「呉のマイナー将軍」というイメージしかない。しかしどうやら史実は違っています。今回は史実をもとに潘璋について紹介します。
※記事中のコメントは現代の人に分かりやすく解説しています。
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孫権からスカウトを受ける潘璋
潘璋は貧しい家の出身であり、性格は粗暴・気ままでした。要するに大雑把です。まともに酒を買うことも出来ずにいつも支払いはツケ。
「いつになったら、返すんだよ?」と催促が来ると、伝家の宝刀「出世払い」を繰り出している始末。もはや手に負えません・・・・・・孫権はそんな潘璋を一目で「ただ者じゃない」と判断して部下にしていますが、何が気に入ったのか、正史には過程が記されていない。普通に読むと孫権は、ただのグータラを仲間にしたようにしか見えません。
正体はチンピラ・ヤクザの親分であった潘璋
孫権が潘璋をスカウトした理由について、彼が「少年」だったからと推測しています。少年というのは漢代独特の用語です。現在とは意味が違っており簡単に言えば、チンピラ・ヤクザです。前漢(前202年~後8年)初代皇帝劉邦は少年の親分です。潘璋もおそらく、少年の親分の1人でしょう。その証拠として彼が呉の中央市場の取り締まりに当たると、盗難傷害事件がピタリとやんだそうです。これこそ潘璋がヤクザの親分だった時の力を誇示した証拠でしょう。
合肥の戦いで活躍する潘璋
潘璋は『三国志演義』では、ほとんど目立たないのですが正史では大活躍しています。建安20年(215年)に孫権と魏(220年~265年)の張遼が合肥で戦いました。張遼の奇襲により陳武が戦死、徐盛・宋謙も敗北・・・・・・呉軍からは逃亡兵が続出しました。
「これは危ない!」と判断した潘璋は、近くにいた逃亡兵2名を斬り捨てます。「これは以上逃げる奴は同じ目にあわせるぞ!」と脅しをかけます。突っ込んでも死、退いても死・・・・・・呉の兵士は逃亡をやめて前に進むことにしました。結局、合肥奪取は出来ませんでしたが潘璋の働きを知った孫権は、彼を偏将軍に任命します。
蜀の関羽、馮習を討つ
建安24年(219年)、潘璋は呂蒙と一緒に荊州をとります。関羽は樊城に駐屯している曹仁に集中攻撃をかけていたので油断しました。
荊州をとられた関羽は逃走を図りますが、その途中で息子の関平、部下の趙累と一緒に捕縛されて斬られました。ちなみに潘璋が部下の馬忠と一緒に捕縛したのはフィクションではなく史実です。
激怒した劉備は関羽の報復のために呉へと出兵。しかし陸遜の火計のために大敗。この時、潘璋は蜀の馮習を討つ功績を挙げました。潘璋の兵士は数千に過ぎなかったのですが、働きは数万に匹敵していたようです。また、非常に商売上手だったらしく戦が終わると自軍の管轄区で市場を開いており、他の将軍も自軍で足りないものは潘璋軍から購入していました。
プライベートでは嫌われていた潘璋
ところが数々の功績を挙げた潘璋でしたが、プライベートではとんでもない人物でした。役人や兵士に少しでも金持ちがいたら、殺して金品を奪っています。ただの強盗ですね・・・・・・
潘璋は服装も身分不相応な格好をしていました。現代風に言えば、オフィスにビジネス・カジュアルではなくサングラス、指輪、ネックレス、ジャージ、革靴・・・・・・とにかく、わけわからん格好で来ていたということです。これは潘璋自身が本当のセレブではなく、ただの成金だから社交界の作法が分からないのでした。潘璋は功績もありましたが数々の不法行為も目立ったので訴えもあります。だが孫権は功績が多いので処罰は出来なかったようです。
嘉禾3年(234年)に潘璋はこの世を去りました。享年不明。潘璋の死後、息子の潘平は品行が良くないということで処罰を受けました。父親の罪を息子が受けたのです。
三国志ライター 晃の独り言
潘璋は武将という1つの職業に縛られずに、商人というもう1つの顔も発揮した人物でした。後世にはよくある傾向の人物なのですが、三国時代(220年~280年)では非常に珍しい人物です。現代で例えるなら副業をやっていたということになります。副業が許されているなんて、呉はホワイトな国だったのですね(笑)
それでは私も呉に転職してきます。
※参考文献
・宮崎市定「游侠について」初出1934年 後に『宮崎市定全集5 史記』(岩波書店 1991年)
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