曹休(そうきゅう)は曹真(そうしん)と共に虎豹騎を率いて戦場を駆け回ります。曹操(そうそう)も次世代を担う人材として曹休に期待を寄せており、色々な経験を積ませたそうです。
曹丕(そうひ)の時代には呉の戦線の総司令官となるのです。今回は曹操に期待された人材・曹休を紹介していきたいと思います。
この記事の目次
曹操から期待を寄せられる大型新人
曹休は幼い時に父親を亡くなっています。母親を伴って呉郡へと行きますが、曹操が挙兵した事を知り、母親を連れて、曹操の元に身を寄せます。曹操は「この子は、千里の駒なり」喜びを側近に現したそうです。曹操はよほどそれほど曹休を気に入ったそうで、息子である曹丕と共に育てたそうです。精鋭騎馬隊「虎豹騎」を率いていた曹純が亡くなると、曹真と共に分割して率いるようになり、各地の戦いに参加し、武功を挙げていきました。
下弁奪還戦で軍略の才能を見せる
曹休は、曹操の晩年の戦いにはほとんど参加し、着実に武功を挙げていました。そんな中、曹操から曹洪と共に漢中に出陣せよと命じられます。曹休は曹洪の副官に任命され、曹操から「曹洪が今回の司令官であるが、実際の司令官はお前だ。しっかりとやれよ」と言われます。
曹操の激励を受けて出陣した曹休は、要衝である下弁の奪還作戦を提案しました。曹洪(そうこう)は賛成し、下弁奪還作戦を開始します。劉備軍先鋒の呉蘭を撃破し、五虎将軍である張飛を追い払うことに成功するのです。この戦功が認められて曹休は累進し、次世代を担う人材として着実に力をつけていることを内外に証明します。
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対呉戦線の総司令官へ
曹休は、曹丕の時代になると対呉戦線の総司令官に任命されています。曹丕は、任地に赴く曹休をわざわざ見送ったそうです。幼いころから共に育った曹丕も彼に対して期待を寄せていた事が分かります。曹休は、任地に赴き侵攻してくる呉軍を打ち払い、自国の領土を奪取される事無く、連勝しておりました。その後、曹丕が軍を率いて呉を討伐すべく攻撃を開始します。
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呉の討伐は失敗に終わるが勲功を挙げる
この戦いは失敗に終わりますが、曹休は呉軍を撃破し、数千人を討ち取る勲功を挙げています。曹丕が亡くなり、曹叡が次世代の皇帝として魏国を治めることになります。皇帝の代替わりの時を狙って呉軍は魏軍の領土に侵攻してきます。
曹休は冷静に対応し、呉の将軍を一人討ち取り、一人は魏に降伏させるのです。この功績が認められて、大司馬へと累進し、褒美もいっぱいもらったそうです。曹操が期待した通りの人材に育った曹休は対呉戦線の総司令官の役目を立派につとめておりました。
曹休の明暗を分けた「石亭の戦い」
曹休は対呉戦線の総司令官として、実力を見せつけ、魏にとってもなくてはならない人材に成長しておりました。そんな中、呉の文官・周魴(しゅうほう)が降伏の使者を送ってきます。はじめの内は疑っておりましたが、呉の内部調査を行った結果、周魴の書状に書いてある事が真実であることが判明し、曹休は出陣します。
石亭で陸遜と対峙
石亭で周魴と待ち合わせていたが、そこにいたのは陸遜(りくそん)率いる呉軍の大軍でした。四方八方から総攻撃を受け、率いていた軍勢は壊滅的なダメージを負いますが、援軍が到着した事でなんとか退却に成功しました。
曹休は大敗北したこの戦いの後、病に倒れそのまま亡くなってしまいます。曹叡(そうえい)は生前の曹休の功績を称えて、「壮侯」のおくり名を追贈し、丁重に葬ったとされています。この戦いに負けたため、それまで連戦連勝であった曹休の評価はガタ落ちし、後世には無能な将軍として伝えられてしまったのです。
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三国志ライター黒田廉の独り言
曹休は「石亭の戦い」で敗れたため、後世からの評判はすごく悪くなります。一回負けただけで、無能な人材と酷評を受ける事になったのです。石亭の戦いに敗れていなければ、呉軍に壊滅的なダメージを与えられ、蜀より早く、呉が先に倒れていたかもしれません。
そうなれば、曹休の名声もすこぶる高まり、名将の名をほしいままにしていたかもしれないですね。後世にいる私から見た、石亭の戦いは、後世に対する曹休の評価を分けた非常に重要な戦いではないかと思います。今日の三国志話会はこれにて終わりです。また次回の三国志話会でお会いしましょう
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