蜀の威信と存在意義を賭けた北伐は、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の生命を燃やした一大事業になります。
三国最小の国力で大国魏と五回に渡りぶつかった孔明は疲労し、ついに五丈原で倒れて還らぬ人になります。では、孔明は北伐により具体的には、どこの攻略を目指したのでしょうか?
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孔明の狙いは、漢の旧都であり穀倉地帯でもあった長安(ちょうあん)
孔明が率いる北伐軍の最終攻略ポイントは、前漢の都でもあった長安です。ここは、秦の旧都であった咸陽(かんよう)にも近く、一帯は豊かな穀倉地帯でした。事実、漢の高祖、劉邦(りゅうほう)は反項羽(こうう)の拠点を
この咸陽周辺に置いて部下である䔥何(しょうか)に人と物資をどんどん運ばせて武力で上回る項羽に対抗しています。三国志の時代においても、長安周辺は、そこで取れる穀物で周辺の人口を充分に賄える程に豊かでした。
孔明は、この長安を落として拠点にする事で、失った荊州に代わる、魏攻略の拠点を得ようとしていたのです。また、かつての漢の帝都であった長安を手中にする事は、漢の再興を旗印にしている蜀にとって格好のPRにもなりました。
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逆に言えば、魏にとって長安は決して落させてはいけない地点
見方を変えると、魏にとっては、なにがあっても孔明に長安を落させるわけにはいかない事になります。
三国時代の魏は曹丕(そうひ)の代に許昌(きょしょう)から洛陽(らくよう)に遷都していますが、洛陽は長安からそこまで離れているわけではありません、万が一、長安が失陥すれば、安全の為に遷都を余儀なくされる事態になり、それは魏の求心力を大きく低下させ国内反乱の呼び水になるでしょう。
そうでなくても、長安が落ちれば、その隙に乗じて呉が攻め上ってくるという可能性も捨てきれない部分がありました。
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長安を目指す蜀軍に立ちはだかる、山脈
しかし、口で長安を落すと言っても、その道のりは簡単なものではありません。蜀の都である成都(せいと)は盆地であり、穀倉地帯ですが周辺は天を突くような山脈に囲まれた天然の要害でした。
楚漢の戦いでも、劉邦は項羽に漢中王に封ぜられて左遷されたおりに、断崖絶壁をくぐりぬけて命懸けで漢中に赴任しています。その地形は、400年やそこらで変わるものではなく、漢中から外に出るだけで、それは大変なエネルギーを必要としたのです。蜀は守るには簡単でも、攻めて出るのは至難の土地でした。
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長安に至るルートは五つ、いずれも山脈の間を通る間道
巴蜀の地から、長安に出るには、五つのルートが存在したようです。
①子午道(しごどう)・・漢中と長安を結ぶ最短のルートで、長安の南に出る事が出来る。
②駱谷道(らくこくどう)・・子午道と並行して走りながら、途中で山脈を迂回して、
最後には、子午道と合流するルート。
③褒斜道(ほうしゃどう)・・・山脈の真ん中を褒水に沿いながら通って
関中平原を抜ける五丈原へと通じるルート。
④故道(こどう)・・・褒斜道のさらに西を通り関中西の要衝である陳倉に通じるルート。
⑤関山道(かんざんどう)・・山脈の東北を迂回して、天水郡へ抜ける、最も平坦なルート
五回に渡る北伐において、孔明は、この五つのルートを駆使して魏と激戦を繰り広げます、魏にとっても、孔明の北伐軍のルートを読むのが最も重要になりました。
三国志ライターkawausoの独り言
このように北伐の最終目的は、穀倉地帯であり、同時に漢の旧都であった長安を陥落させて、蜀の支配下に置くという事でした。そして、長安までの距離はそこまで離れてはいないので、魏延(ぎえん)などは、単独で軍を率いて長安を落す事を何度も進言していました。
迎え撃つ魏としても、蜀の本隊がどこから出るかを予測しなければならず大部隊を割いて防衛に当たるなど、地の利がある分は有利であるとはいえ、決して手が抜けるような戦争では無かったと思います。今日も三国志の話題をご馳走様でした。