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「蜀の桟道」は三国志での守りの要?諸葛亮が桟道を整備した経緯と桟道の役割を解説

2021年12月12日


 

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祁山、街亭

 

劉備(りゅうび)が支配した蜀、当時の行政区分で「益州(えきしゅう)」は「天然の要害」と言われていました。これは「自然が険しく攻めにくい」ということです。なかでも「(しょく)桟道(さんどう)」と言われる道はその天然の要害を象徴する場所でした。

 

今回の記事では「三国志」において「蜀の桟道」がどのような役割を果たしたか、探っていきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「蜀の桟道」とは?祁山、街亭

 

 

「蜀の桟道」とは関中から蜀へ抜ける道の事をいいます。その道は険しい崖に穴をあけ、杭を打ち、その上に板や石などを置いて道とした、とんでもなく危険な道でした。蜀の桟道がある一帯は高い山々が連なり、通行するのがとても難しい場所でしたが、長安と成都を結ぶとても重要な道でもありました。

 

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蜀の桟道の成り立ち

三国志 蜀の桟道(街亭)

 

蜀の桟道は戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221年)の秦の恵文(けいぶんおう)(在位紀元前338年〜311年)のころに作られたと言われています。恵文王は蜀の地を征服しようとしていました。しかし、蜀は天然の要害に囲まれ、行き来するのも難しいほどでした。

 

そこで恵文王は一計を案じます。最初は蜀の王と友好関係を築き、蜀に「黄金の牛」と言われる像を贈る事にしたのです。しかし、これを運び、山を越えるのはとても困難です。そこで蜀の王は黄金の牛を運ぶために「蜀の桟道」を整備した、と言われています。

 

その道を使い、秦は蜀に進撃し、結局は蜀を征服します。蜀の桟道は秦の恵文王が蜀の王を騙して作らせた道と言えるかもしれませんね。この故事にならい、この桟道の一つのルートは「金牛道(きんぎゅうどう)」とも言われます。

 

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—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

劉備の益州攻略戦

宴会をして劉備をもてなす劉璋

 

そして三国志の時代です。劉備は諸葛亮(しょかつりょう)のアドバイスに従い、当時劉璋(りゅうしょう)が支配していた益州を得たいと思っていました。

 

法正、劉璋、劉備

 

そんな時、「暗愚な劉璋では曹操(そうそう)に対抗できない」と考えた劉璋の家臣らが劉備を益州に引き入れることを計画します。名目は「張魯(ちょうろ)討伐に協力してもらう」ということで、あくまで援軍としてでしたが、いずれ劉璋を追い出し、益州を劉備に譲る計画でした。

 

宴会をして劉備をもてなす劉璋

 

劉璋は初めは劉備を受け入れようとしましたが、家臣の劉璋の廃立計画が露呈。劉璋と劉備は戦争状態に突入します。この時劉備は「葭萌関(かぼうかん)」というところに駐屯します。その近くには蜀の桟道で最も有名な「明月峡蜀古桟道」があります。ここから劉備らは成都にむけて進撃していくことになります。

 

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法正

 

 

諸葛亮、桟道を整備する

夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

のちに劉備が亡くなり、諸葛亮が蜀の中心となります。そして諸葛亮は魏を打倒するために「北伐」を計画します。その中で前述の「明月峡蜀古桟道」が整備され、北伐に使用することになります。

 

魏延と孔明

 

また、諸葛亮は魏との国境に近い「大剣山」と「小剣山」の間に関を作ります。

 

三国志 剣閣のお城

 

これが「剣門関(けんもんかん)」(剣閣(けんかく))です。この関は蜀の守りの要として重要な場所となります。加えて関の谷の下に30里にもわたる桟道を作り、北伐などで使用されました。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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