今回は皆さんも悪い意味でご存知であろう、許攸についてちょっとおしゃべりしたいと思います。許攸は有名な所では袁紹の配下でしたが、官渡の戦いで策を受け入れてもらえなかったことから離反。
曹操に寝返って烏巣の奇襲を進言し、曹操はこれを取り入れて袁紹に勝利しました。しかし曹操になれなれしくし過ぎたことによって処刑されてしまいます。そんな許攸の生涯を見ていきましょう。
袁紹、曹操の参謀役
前述したように、許攸は色々なこと(皇帝擁立失敗とか)をやった後に袁紹に仕えることとなります。
そんな許攸にスポットライトが当たるのがかの有名な官渡の戦い。許攸は袁紹に献策を受け入れてもらえず、彼を見限って曹操に付きます。
曹操は許攸による烏巣の奇襲作戦を取り入れ、袁紹に勝利。これ以降は曹操は最大の敵を破ったことで、天下に邁進していくこととなるのです。
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謙虚さが足りない許攸
さてこの許攸、実は曹操とは昔馴染みでした。このためかどうかは分かりませんが、許攸は常々曹操に対して馴れ馴れしくしていたようです。そしてそのために、運命は急転直下。
204年、曹操はギョウを落とします。そしてその門を潜った許攸は「私がいたからこそ曹操はこの門を潜ることができたのだ」この余りにも思い上がった一言は曹操に密告され、処刑されることになりました。
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三国志演義では許攸はどんな扱い?
因みに三国志演義の許攸と言うと、殆ど同じです。官渡の戦いで進言したこと、そして曹操が勝ったこと、何より曹操と昔馴染みであった気軽さから馴れ馴れしく接し、
正史と同じくギョウの門を通った際に曹操に「この門を通れたのは私のおかげだな!」と言い放ち、曹操は笑って流すものの、その近くに控えていた普段から温厚でぼんやりしていることで定評のある許チョが珍しく激怒、そのまま切り殺されるという結末を迎えます。
どちらにせよ許攸は官渡で袁紹から離反して曹操に付き、曹操を勝利させたもののたったそれだけ思い上がって歴史から消える、そんな存在です。
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許攸の能力
因みに袁紹には受け入れられなかったと言えど「曹操の本拠地と補給路を断つべき」という進言。その後の曹操に対する「袁紹軍の兵糧基地・烏巣の奇襲」という進言。
これらの策はどちらも的を射ているものであり、決して許攸に能力がなかった訳ではありません。またこの功績も大きな物でしょう。しかしそれをおいて考えてもその馴れ馴れしさ、態度は目に余るものがあります。
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性格がマイナス過ぎる許攸
またその最期から分かる性格の悪さですが、これについても方々で叩かれているのが許攸。荀彧は「許攸は貪欲で身持ちが収まらない」と言い、袁術は「貪欲で不純なやつ」と言っています。
荀彧はともかくとして袁術にこうまで言わせる性格、それが許攸の最期を決めたのでしょう。何よりもその性格の悪さを自覚していなさそうな辺りが、許攸の人生の伸びしろを決めてしまったのかもしれません。
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