さて巷ではどこまで有名かは分かりませんが、読みやすく、分かりやすく、読んでいて面白いと三拍子揃った三国志演義には「被害者」と呼ばれる人たちがいます。
筆者の個人的な意見だけを過分に含むと、曹真将軍とかはこの一人、活躍の場を削られたという意味では荀攸や郭嘉もそうでしょうか。今回はその中から一人、韓浩のお話をしたいと思います。
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曹操が頼りにした一人、韓浩
さてこの韓浩、夏候惇に見出されて曹操の配下になった人です。智勇兼備で数々の戦いで軍功を立てた韓浩、周囲の人々にも信頼されていたようで、漢中の太守に推されたこともありました。
しかし曹操は「手元から韓浩が離れるのはいや!(意訳)」とこれを却下したと言われる人物で、これからも曹操の信頼を得ていた人物だということが分かります。
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夏候惇を(結果的に)救い出す!
韓浩が曹操に信用されたのはただ武働きがあったからだけではありません。かつて夏候惇が敵に捕まってしまった時に、韓浩は卑劣な敵には屈さず、徹底抗戦を決意。
結果的に敵も倒せて夏候惇も救い出すことができたこの決断を曹操はとても評価し、これ以降、曹操軍は人質を取られても戦いを続けるようにとお達しが出ました。これにより逆に人質が取られることが無くなったようです。
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兵糧不足を解消した韓浩
また韓浩は戦乱の中で生まれた流民を使うことで、曹操軍における兵糧不足の解消に一役買いました。耕作放棄地を国営化し、流民に与えてその食料を一定量徴収し、兵糧に当てたのです。
これまでは戦争が起こる度に徴収、または欲しいものは敵地で奪え!という方式で兵糧不足が起きやすかったのですが、これにより曹操軍は一定の兵糧を確保できるようになりました。戦いにおける大きなアドバンテージとなったことでしょう。
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その一方で……?
と、このようにいくつもの働きを残している韓浩。彼が三国志演義でどうなったのかというと……なんと、韓玄の弟として出てきます。そう、劉備が戦った長沙の太守、韓玄の弟です。
その登場と言えば、黄忠が兄を殺したと思いこんで(※魏延たちがやりました)敵討ちをしようとするキャラクターとして出てきたかと思うやいなや、劉備軍の計略にあっさり引っかかって敗北、逃走。
兄の仇(※魏延たちがやりました)の黄忠に挑むも相手になるはずがなくこれまたあっさりやられてしまうというキャラクターです。
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どういうこと?
さて前述したようにこの韓玄の弟という設定は、正史における韓浩とは何の関係もありません。そもそもとして韓浩は蜀軍との戦いで討ち死しているのではなく、時期ははっきりとはしないものの病死です。
また韓玄においても韓浩との関係については特に記述がない……というよりも長沙の太守であったけど劉備に敗れたという記述しかなく、どういう人物であったのかも分かりません。あくまで韓浩の苗字が韓玄と同じであるため、韓玄のエピソードが足りないから付け足されたのでは……という所でしょうか。
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