八人の司馬が入り乱れて戦うことになってしまった八王の乱。
そんな八王の乱の終結、そして残っていたのは司馬越でした。しかし八王の乱を生き残れたからといって、歴史でも生き残れないのが「歴史」。今回は主に八王の乱終結後の司馬越を振り返ってみましょう。
この記事の目次
八王の乱への終盤に参加する司馬越
さて参加したかったのかしたくなかったのか巻き込まれてしまったのかはこの際置いておいて、司馬越が八王の乱に参加したのは争いも終盤になってから、司馬ガイと司馬エイ、ギョウの戦いでのことでした。
洛陽と皇帝を背後に戦い続けた司馬ガイ、しかし戦場では優勢であっても、それを知らない司馬越は洛陽の物資が枯渇してしまい司馬ガイが敗北すると思って彼を拘束し、降伏してしまったのです。
実際には司馬ガイが優勢だったので「もう一度司馬ガイ殿に戦って頂ければ」という空気が漂い始める中、司馬越は急ぎ司馬ガイを処刑し、半ば無理やりに戦闘を終わらせます。
この辺りの下りは別の八王の乱の記事で詳しく書いていますので、司馬ガイの活躍が見たい方はそちらもよろしくお願いします。
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乱の終結と生き残り
306年、司馬ギョウ、司馬エイ、その上何と恵帝まで亡くなりました。余りにも突然恵帝が亡くなったため、急いで次の皇帝を選出する必要があります。
そこで選ばれたのは司馬炎の息子、司馬熾、そして二十も少し過ぎた年ごろの彼の補佐役として選ばれたのが司馬越です。
何とも司馬越の都合の良い展開になったように見えますが、ここからがある意味、司馬越の本当の戦いの始まりでした。
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内輪もめはまだまだ続く
八王の乱という内輪もめが終わったばかりにも拘わらず、宮中はまだまだ内輪もめが続きます。というのも翌年から既に懐帝・司馬熾と司馬越は不仲となり、司馬越は洛陽から立ち去って許昌に駐屯するようになりました。
内輪もめは外部からすれば絶好の機会、既に漢を建国した劉淵が着実に勢力を拡大、いつの間にか挙兵した王弥たち、世は終わったはずの群雄割拠の時代にまた逆戻りかと言わんばかり。ここで司馬越が利用したのがエン州刺史・苟晞です。
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韓信の再来・敵に回る
苟晞は司馬越が期待した以上の働きを見せました。石勒らを打ち破り、高い戦果を挙げた苟晞は韓信の再来とまで謳われました(フラグ)。これに感心した司馬越は苟晞と義兄弟の契りを結び、一息つくかと思いきや……それを周囲は許しませんでした。
「苟晞は野心を抱いております」よりによってこの言葉を聞き入れてしまった司馬越は苟晞が平定したエン州の刺史になり、苟晞は代わりにまだ治安が治まらない青州刺史に追いやったのです。
この件を恨まれて苟晞との仲は悪化、そもそも懐帝とも仲が良くない。敵の敵は味方と言わんばかりに懐帝は苟晞の権限を高めていき、司馬越は段々と孤立していきます。
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漢、来たれり
308年、司馬越は本拠・許昌を失います。遂に漢の研ぎ澄まされている牙がそこまで迫って来ていました。漢は王弥や石勒たちを配下に迎えることで更に強くなり、一方で司馬越たちは仲良く(?)内輪もめ状態。
翌年、漢の猛攻撃が始まります。辛くも防衛を成功させる中、打開策として并州刺史の劉コンから「漢を挟み撃ちにしようぜ!」と提案されるも、司馬越は「苟晞に背後を取られたら嫌だ」と断る始末。
最早眼前の敵より背後の味方(のはず)に怯えていては勝てるものも勝てず、段々と洛陽の備蓄が尽きていく中で諸将に援助を頼むもこれに応えるものはいませんでした。
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