「陸抗」は呉の名将「陸遜」の息子です。父の陸遜は智謀に優れ、多くの戦いで戦功をあげた名称ですが、その息子の陸抗も負けず劣らずの智謀を持っていたとか。その智謀には敵である魏の武将も感服したといいます。
今回の記事ではそんな「陸抗」の智謀とその人生についてみてみましょう。
この記事の目次
陸遜の息子として跡を継ぐが、いきなり試練が
陸抗は陸遜の次男として生まれました。長男は早くに亡くなったため、陸抗20歳の時、陸遜の跡を継ぐことになりました。しかし、陸遜は晩年、孫権の後継者争いに巻き込まれ孫権と対立、失意のうちに亡くなっていて、孫権は陸遜を快く思っていませんでした。
陸抗が父の埋葬のために故郷に戻る途中、呉の首都「建業」の寄ったのですが、そこで孫権から父の陸遜について20項目もの詰問を受けてしまいます。しかし、陸抗はその詰問すべてに申し開きをし、孫権も納得をしたといいます。こうして陸抗は父の汚名を晴らすことができたのです。
のちに孫権は陸抗を重用し、「この前の詰問の書物はすべて焼き捨ててほしい。」と、謝罪したといいます。
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軍事面で功績をあげ、その智謀を認められる
その後は将軍として多くの戦に参戦しました。主に魏との戦で功績をあげ、魏の「諸葛誕」が反乱を起こし、呉に援軍を求めた際はその救援に赴き、魏軍を破っています。
孫権の死後は蜀近くの軍事権を与えられ、蜀軍と対峙することになります。蜀が滅亡すると、援軍を送るふりをして蜀の城を攻めますが、蜀の「羅憲」に抵抗され撃退されてしまいます。
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まじめな陸抗
呉の西地区の防衛で功績をあげた陸抗でしたが、その人物はとてもまじめだったといいます。まだ陸抗が若いころ、有能で名前が知られた「諸葛恪
」と任地を交換することになりました。
陸抗は他の土地に赴任するにあたり城壁を修理し、城のあちこちを修理し、みだりに畑を荒らしてはならない、と命令を残していきました。諸葛恪が任地についてみると、なんとそこはすべてがきれいに整備されていたのです。
諸葛恪は自分を恥じました。なぜなら彼は前の任地を特に何もせず、そのままにして赴任してきたからです。このことから陸抗の生真面目な性格が感じられますね。
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西陵の戦いで先を読む
蜀が滅んだのち、魏も「晋」に変わったときのことです。西陵(現在の湖北省)の司令官が晋に寝返り、そのまま城に籠城したのです。陸抗はそこに駆け付けましたが、城を攻めることはせず、包囲を固めたのです。
他の武将は焦り、早く城を攻めるよう進言しましたが、陸抗は「私はかつてこの城を守ったことがあり、とても堅固で食料が豊富なことも承知している。すぐに攻め落とすのは難しいので、まずは晋の援軍に備えることが大事だ。」と、包囲を続けます。
そこに晋の軍が到来しますが、陸抗の守りは固く、数か月の対峙の末、晋軍は撤退、陸抗は西陵を落とすことに成功したのです。
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