「六出祁山(リョウチューチーシャン)」という言葉をご存でしょうか?
これは中国における諸葛亮の北伐を意味していて、簡単に言えば6回祁山に出兵したということです。しかし、ここで2つツッコミどころがあります。それは、毎回祁山に出兵していたわけではないという点と北伐の回数です。
前者の問題は置いておくとして、後者については第三次と第四次北伐の間に曹真が漢中へ侵攻してきた分もカウントしているため6回となっています。
今回はそんな「第3.5次北伐」を含めた諸葛亮の北伐における雨のエピソードを紹介していきます。
雨に救われた第3.5次北伐
230年、曹真は明帝に対して漢中の攻略を上奏しました。侵攻の理由は諸葛亮が第一次北伐に始まり、連年のように国境を侵しているため、蜀漢の前線基地である漢中を奪うというものです。
後主伝によれば曹真が斜谷から、張郃が子午谷から、荊州にいた司馬懿が西城から三路で攻めてきたとあります。
ただ、張郃伝にはその記載がなく、曹真伝には曹真自身が子午谷から進軍をし、ある部隊が斜谷と武威から進軍したとあるので、実際は四路作戦だったのかもしれません。
この作戦において司馬懿は、陸路と水路を使って巴東へと進軍しました。水軍は漢水を遡上し、陸軍は魏興郡にある西城県から山を切り開いて進み、胊忍県に到達。そして、新豊県を攻略しますが、丹口という場所に宿営している際に長雨に当たってしまいます。
曹真も同様に南鄭で落ち合うという約束で南進を開始しますが、30日以上続く長雨に当たってしまいます。
山道を進軍していた曹真は桟道が崩れるなどの被害が発生したことにより進軍が困難に。そこで明帝に上奏して退却をしました。この時、全軍が退却をしたのか、それとも雨の影響がなかった武威からの軍は進軍してきたのかは記載がありません。
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魏延の羌中入り
雨とは関係ありませんが、曹真が攻めてきた同年に魏延は呉懿とともに羌中に入っていて、南安郡にあるとされる陽谿という場所で郭淮、費耀を破っています。
羌中とは現在の臨潭県、チョネ県一帯を指していて、当時は隴西郡にありました。南安と隴西は隣り合っていて、ともに武威の南にあることから、武威から進行してきた敵軍の迎撃を行ったとも考えられます。
仮に時期がずれていたのであれば長安からの援軍は来ないことが予想されるので、そのスキに羌族や氐族を帰順させるために魏国領内の奥地へと侵入したのかもしれません。いずれにしても、魏の主力が長雨によって進軍が困難になったことで未曾有の危機は救われたのでした。
ちなみに晋書五行志によれば「魏太和四年八月,大雨霖三十餘日,伊、 洛、河、漢皆溢,歲以凶饑。」と記載があり、この年は各地域で河川の氾濫が起こり、食料がなくなったことが伝えられています。
益州は夏場に雨が多くなりますが、この年は特殊な気候だったようなので、曹真はただただ不運だったとしか言いようがありません。
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雨に泣いた第四次北伐
曹真の侵攻があった翌年、諸葛亮は4度目の北伐を開始します。目的地は因縁の地である祁山です。
この北伐は比較的順調で祁山を包囲しながら、別働隊の司馬懿らを諸葛亮自らが釘付けにし、焦れて攻めてきた魏軍を破っています。戦果は敵兵の死者3000人、獲得した鎧は5000、弩は3100張にも及びました。
もともとは春に出陣した諸葛亮でしたが、長期戦によって季節は夏へと変わっていました。前年には長雨によって魏の侵攻が失敗に終わりましたが、この年はそれが諸葛亮に返ってきたのです。
食料など物資の補給をしていた李厳は長雨によって物資の輸送が困難となり、諸葛亮に撤退を進言します。
諸葛亮はこれに従いましたが、蓋を開けてみれば局所的には勝利を収めたものの、祁山を制圧するという目的は果たせないままという中途半端な戦果に終わりました。
その後、李厳は撤退の責任を諸葛亮に転嫁しようとします。これに対して諸葛亮は、李厳が先ごろから己の利益のためだけに動いていた旨を上奏し、李厳の罪を明らかにしました。
食料の輸送が遅れた原因は本当に雨だったのか、李厳の職務怠慢によるものなのかはわかりません。ただ、麦や米が実る夏から秋にかけて雨が多くなるという益州の気候は、遠征をする上で致命的だったと言えるでしょう。
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【北伐の真実に迫る】
三国志ライターTKのひとりごと
雨つながりで面白いと思ったエピソードを1つ紹介します。
三国志演義における諸葛亮は、北伐の際に反骨の相があり後の禍となる疑いのあった魏延を、司馬懿もろとも火計で葬ろうという計画を立てます。
自身が殺されるとは知らない魏延は、作戦どおり司馬懿を誘導しながら葫蘆谷へ差し掛かります。すると轟音とともに周囲に火の手が上がり、司馬懿と魏延を焼き殺そうとしますが、あと一歩というところで雨が降り火は鎮火。
怒りに震える魏延が諸葛亮を問いただすと、諸葛亮は馬岱に責任を押し付けて、その場を収めるのでした。正史では雨を理由に責任転嫁をした李厳ですが、演義では諸葛亮が雨によって部下に責任転嫁をしなければならなくなっています。意図があったとは思えませんが、皮肉っぽい話だなと思いました。
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