三国志というと、華々しい武将達の合戦シーン、
ゾッとするような知将達の権謀術数が繰り返される
血沸き肉躍る歴史長編活劇です。
この記事の目次
三国志の武将たちにも日常があるのです
しかし、三国志の武将達にだって日常があるわけで
365日、合戦しているわけではありません、
私達現代人と同様の平凡な日常もあるのです。
そんな平日、武将達は、どうしていたのでしょうか?
三国志の武将達の日常イメージ
私達のイメージでは、夕方になったら、城を退出して、
郊外にある自宅に馬車か馬か徒歩で帰っていったのではないか
なーんて思いますよね?
妻「あなた、お帰りなさいませ」
夫「今、帰ったよ、あー今日も曹操様に仕事の駄目出しをされた
あの人、背が低いせいか、何事もせっかちなんだよな、ぶつぶつ」
子供「父上、お帰り~遊んで、遊んで~」
妻「これっ!お父様は疲れているのよ!!」
こんなアットホームな家庭が浮かびますが、実は、
三国志の武将達は、5日に1日しか家に帰れませんでした。
5日に1日しか家に帰れなかった武将たち
それ以外は、城の中に建てられた宿舎、
今でいう社宅のような場所に、多くの同僚と一緒に住んでいたのです。
前漢の時代の長安にあった未央宮には、細長い官舎の跡があり、
恐らく、細長い建物を造り、間に仕切りを入れたような
長屋然とした建物だったのでしょう。
つまり、三国志の武将達は、仕事が終わっても城からは出られず、
そのまま、それぞれの社宅に戻っていたのです。
家に帰れるのは髪の毛を洗う日だけ
家に帰れるのは、洗沐(せんもく)と言って、髪を洗う日だけでした。
当時は、儒教の影響で、髪を切るという習慣がなく、
髪や髯は、伸ばしていて、長い髪は頭頂部で纏めていました。
髪を切るのはタブー
中国の刑罰には、頭髪を剃りあげるだけの髠(こん)という
刑罰もあった位なので当時、髪を切るのがいかにタブーだったか分かります。
なので一度、洗髪すると髪を乾かすのは大変です。
そこで、一日は仕事にならないのでお休みになっていました。
身分の高い人にも城の中で泊まりこむ規則
また、この城の中に泊まり込むという規則は、身分の高い人にも
適応されていたらしいのです。
つまり、郭嘉(かくか)や程昱(ていいく)、荀彧(じゅんいく)のような文官や、
夏候淵(かこうえん)、夏候惇(かこうとん)、許褚(きょちょ)、
張遼(ちょうりょう)のような武官も、宿舎の前に表札を下げて、
わびしい一人住まいをしていたのかも知れません。
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戦争で遠征する際に家族を連れて行くのは禁止
また、戦争で遠征に向かう武将にも、家族を連れていくのは、
許されていませんでした。
どうしてかと言うと、家族を連れる事を許すと、
戦争に負けた時に、家族の生命を助命する事を条件に
敵に寝返る可能性があったからです。
逆に言えば、家族を都に残した武将はうっかり降伏してしまうと
家族を報復で殺される可能性もあったのです。
しかし、5日置きにしか家族に会えないなんて、、
家族がいる武将達は、中々大変な苦労があったんですね。
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—
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この記事を書いた人:kawauso
自己紹介:
三度の飯の次位に歴史が大好き
10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、