兗州を手に入れ、青州兵30万を手中にした曹操(そうそう)は、次に徐州の陶謙(とうけん)を攻めます。一見すると、ただの天下取りの争乱に見えますが、これは曹操(そうそう)に取って絶対に勝利しないといけない因縁の対決でした。
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曹操が絶対に勝利しないといけない理由
曹操(そうそう)には、曹嵩(そうすう)というお金持ちの父がいました。不良息子であった曹操(そうそう)に手を焼きながらも、曹嵩(そうすう)息子の為に要所、要所では惜しみなく金と愛情を注いでくれた恩人です。
しかし、曹嵩(そうすう)は菫卓(とうたく)の争乱から逃れるために故郷から避難していた時榔邪(ろうや)国という所で陶謙(とうけん)の手に掛かり殺害されます。三国志演義では、劉備(りゅうび)に城を譲る好々爺として描かれる陶謙(とうけん)ですが、実際には暴虐な振舞いが多く、評判の芳しくない人物でした。
陶謙(とうけん)は曹嵩(そうすう)を殺害してしまう
陶謙(とうけん)は曹嵩(そうすう)の持っているお金を目当てにした殺害でした。これを知った曹操(そうそう)は激怒し、いつか必ず父の仇を討つと誓います。それが今回の徐州攻略戦だったのです。
曹操軍は怒りの進軍を開始
曹操(そうそう)は圧倒的な軍備で戦争を有利に進めて、報復とばかりに徐州で無差別殺戮と略奪を繰り返しました。ですが、曹操(そうそう)が復讐を遂げている間に本拠地の兗州では大事件が発生していました。
曹操の軍師、陳宮(ちんきゅう)が裏切る
曹操の軍師であった陳宮(ちんきゅう)と張邈(ちょうばく)が計略を図り、呂布(りょふ)を兗州に迎え入れて太守として兗州を乗っ取ったのです。陳宮(ちんきゅう)は、すでに兗州全土に根回しを済ませていて、寝返らなかったのは、荀彧(じゅんいく)と程昱(ていいく)が守る本拠地のケン城とあと2県だけです。
驚いた曹操(そうそう)は、直ぐに軍勢を取って返します。ケン城の荀彧(じゅんいく)と程昱(ていいく)は、呂布(りょふ)の苛烈な攻撃をしのぎ、曹操(そうそう)が戻ってくるのを待ち続けます。
遂に曹操と呂布は対峙する
流石は、名軍師として知られる両者は孤立無援の中で頑張り抜き、とうとう曹操(そうそう)は、軍を帰還させ休む間もなく呂布(りょふ)と戦います。曹操(そうそう)が戻ってきた事で、呂布(りょふ)の軍事的な優位は覆り勝負は痛み分けになります。
曹操は離反した城を回復させる
それから二年後、曹操(そうそう)は粘り強く離反した城を次々と回復させ、呂布(りょふ)を鋸野の戦いで討ち破り兗州の支配を回復させます。敗れた呂布(りょふ)は、陶謙(とうけん)の後を継いで徐州の太守になっていた劉備(りゅうび)の元に逃げのびていきます。
陳宮(ちんきゅう)が曹操を裏切った理由って何?
さて、曹操(そうそう)を裏切り、呂布(りょふ)を迎え入れた陳宮(ちんきゅう)ですが、自分を守る為ならば平然と人を犠牲にする曹操(そうそう)を信じられなくなり裏切りを決意したと言われます。ところが、陳宮(ちんきゅう)が迎えた呂布(りょふ)は、これまた人を信じない自分の直感のみを頼りにする男でした。
結局、陳宮(ちんきゅう)の策は呂布(りょふ)に用いられず、それが曹操(そうそう)の復活に繋がってしまったという事のようです。
陳宮(ちんきゅう)は最期どうなったの?
陳宮(ちんきゅう)は捕まった後に曹操(そうそう)に再び仕えるように説得されますが、二度と戻る事なく、曹操(そうそう)によって処刑されました。曹操(そうそう)が一度、裏切った人物を再び用いるのは異例であり、それだけ、陳宮(ちんきゅう)の才能を買っていたのでしょう。
陳宮(ちんきゅう)の不幸は、自分が命を賭けて尽くそうとする理想的な主君に出会えなかったという事かも知れません。