三国志の群雄の中で秒速のスピードで後漢王朝を見限って、皇帝を自称して仲王朝を興し、これまた秒速で滅んでいった袁術(えんじゅつ)。そんな、トホホな袁術にも、部下はいるのですが、流石袁術の部下だけあり残念な最期を迎えた連中が大勢います。今回も、そんな歴史家が見向きもしないトホホ武将の列伝を記しましょう。
この記事の目次
死ぬまで一緒な元山賊 楊奉(ようほう)韓暹(かんせい)
楊奉と韓暹は、元々、白波賊と呼ばれた河東郡山賊で、黄巾の乱では、これに呼応、というより火事場泥棒的な便乗をして各地で暴れまわりました。
献帝の警護をしていた楊奉
楊奉は、その後、献帝の側近であった董承(とうしょう)の下で献帝の警護をしていましたが、いよいよ、李傕(りかく)の横暴が酷くなったので、献帝を洛陽に移そうと考え、楊奉を通じて、韓暹をボディーガードに引き抜きます。
途中で李傕は、これを自分から献帝を引き離す計略だと気づき、軍を出して、これを追撃しますが、韓暹、楊奉はこれを迎撃して見事に献帝を守り抜きました。
大将軍に任命された韓暹
西暦196年、無事に洛陽に入った献帝は、韓暹を大将軍に任命します。大将軍とは、かつて外戚のトップであった何進(かしん)がついていた、防衛大臣の臨時職ですが、それに元山賊の韓暹が就任したのです。ところが、韓暹は、これですっかり舞い上がり、有頂天になって、自分の配下を勝手に官職につけるなどやりたい放題をします。そこで、元々から献帝を擁護していた董承と路線対立が生じますが、董承には兵力がないので、付近を支配していた曹操に接近して、献帝を曹操に売り飛ばしてしまいます。
落ちぶれた韓暹と楊奉
これで、正当性を失った、韓暹、楊奉はすっかり落ちぶれて、元の山賊に戻り、定陵周辺で略奪行為を行ったので、曹操は討伐軍を派遣して、二人を撃破しました。全てを失った韓暹と楊奉は、放浪の末に、その頃、寿春で皇帝を自称していた袁術を頼りその部将になってしまうのです。西暦197年、袁術は、曹操に対抗する為に呂布の娘と息子を縁組させて同盟を組もうとしますが、呂布の配下の陳圭がこれに猛反対。
「あんな自称皇帝と組んだら、身の破滅でっせ、今は帝を擁する曹操と組む方が、100倍お得でス」と説得したので、呂布は直前で袁術との縁談を蹴りました。袁術は怒りに燃えて、呂布討伐の軍を興します。
プライドをかけた袁術軍の布陣
袁術軍は威信を掛けて10万の大軍を動員し、袁術軍オールスター、紀霊(きれい)や張勲、(ちょうくん)陳紀、(ちんき)雷薄(らいはく)、李豊(りほう)、陳蘭(ちんらん)という三国志ファンお馴染みの(誰?)綺羅星のような武将達が(だからこいつら誰?)総出演しますが、その後詰めの兵力とされたのが、韓暹と楊奉でした。
戦争は、袁術軍が終始、押し気味に展開して、あわや呂布もこれまでかという所まで追い詰めますが、ここで韓暹と楊奉が寝返り呂布につきます。
韓暹と楊奉は呂布側についた
またしても、呂布の参謀の陳圭の手紙で呂布に付いた方が有利と説得されて、即座に正面の袁術軍に襲いかかったのです。正面と背後から挟まれた袁術軍はひとたまりもなく、元々、戦に弱い皇帝袁術は、部下を置き去りにさっさと寿春に逃亡。韓暹は、一人で十人以上の袁術軍の将軍を斬る大活躍をします。
おおっ!なんという恩知らず、流石は袁術の部下です。
こうして、呂布に裏切り、袁術軍に致命的な打撃を与えた韓暹と楊奉は、呂布軍として海西に駐屯して、ここで略奪行為をしていましたが、そこに呂布の軍勢を奪おうと劉備が接近してきます。
劉備によって倒された韓暹と楊奉
劉備は、謀略を用いて韓暹を殺し、さらに逃亡した楊奉も逃げる途中に旧友の張宣という男の軍勢に捕えられ斬首されました。
張宣は劉備派だったようで、楊奉の首は劉備に届けられています。山賊から、大将軍、また山賊、袁術の部下、呂布の部下、また山賊と、なんだかよく分からん履歴を持つ、韓暹と楊奉、その多彩な履歴と裏切りっぷりは、袁術の配下として相応しいと言えるでしょう。