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始皇帝が中国統一後、なんで中国全土を巡幸したの?全巡幸をストーキングしてみた

2015年8月14日


始皇帝 はじめての三国志

紀元前221年・春秋戦国時代を終わらせ中華統一を成し遂げた秦の始皇帝は、

次の年には休むことなく広大な国土を回る巡幸をはじめました。

 

皇帝」という存在を知らない中国の人々に対して、自身を認知させるために

始皇帝は生涯に渡り5度の巡幸を行っています。

 

そして5回目の巡幸中に、夢半ばに50年の生涯を終えました。

彼は何故、多額の費用を使ってまで巡幸をおこなったのでしょうか?

 

本当に、皇帝を知らない中国の人に、自分の威厳を見せつけるためだけに巡幸にこだわったのか?

彼の5度にも渡る巡幸を辿ってみると、神仙思想に基づく不老不死の憧れが表れています。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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神仙思想ってなに?

殷の大様002

古代中国では仙人の存在が信じられていました。

仙人は不老不死の人間であり、仙人を信じた中国古代の民間思想です。

この信仰に基いて不老不死の薬が探索されたり、自ら仙術によって仙人になろうとした思想で始皇帝も不老不死を求めていました。

 

巡幸に使用した皇帝専用の道路

逃げる劉備追う曹操

 

始皇帝は当時、現代で言う高速道路(馳道)を造らせました。

この高速道(馳道)は一般人が立ち入ることができない皇帝専用の道路ですが、

何か緊急時が起こった場合は戦車も走れる軍用道路です。

 

この道は金槌で叩き固めてつくり、幅は70mもありました。

始皇帝が整備させた約12000kmの道の半分が高速道路(馳道)だったと言われています。

この高速道路(馳道)を使い5回の巡幸を行ったので、全巡幸をストーキングしてみるよ。

 

1回目の巡幸(紀元前220年)

始皇帝 キングダム

 

5度の巡幸で唯一の西行でした。

1回目の目的は、中華統一という功績を故郷に錦を飾るだけではなく、

北方に拡大していた匈奴に対する威嚇があったと考えられています。

第1回目以降の巡幸は全て東方に進むことになります。

 

2回目の巡幸(紀元前219年)

徐福

 

2回目の巡幸は、帝王が代々行ってきた、天地に王の即位を知らせる儀式を行いました。

しかし、この儀式を行なう方法を知っている人はいなく、なんと我流で儀式を行ったと考えられています。

 

ちなみに、天地に王の即位を知らせる儀式のことを封禅(ほうぜん)と呼びます。

 

そして2回目の巡幸で、呪術や天文学に優れた徐福(じょふく)に出逢うことになります。

徐福は始皇帝に「東方面に不老不死の仙薬があるよ!」と伝えました。

 

始皇帝はさっそく徐福に男女数千人を与え、海に送り仙人と仙薬を探させました。

徐福は亶州に到着し彼はそこで王となり、秦に戻ることはなかったと言われています。

これがきっかけで徐福伝説が生まれることになります。

 

400年後に三国時代で有名な呉の君主・孫権は皇帝に即位した直後、

徐福伝説を信じ、不老不死を求めて亶州(日本)に軍を派遣した説があります。

 

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3回目の巡幸(紀元前218年)

 

3回目の巡幸中に、始皇帝一行に重さ約30kgの鉄槌が投げ込まれる暗殺未遂が起こりました。鉄槌は始皇帝が乗った車ではなく副車に当たり暗殺は失敗します。

 

始皇帝はブチ切れて暗殺しようとした者を全国に触れ回して捕まえようとしました。

この犯人はやがて秦を滅ぼす劉邦の軍師となる張良(ちょうりょう)という人物です。

張良は、怪力の男を雇い投げつけた暗殺未遂の事件でした。

 

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4回目の巡幸(紀元前215年)

不老不死 始皇帝

 

自分を暗殺しようとする輩が存在しているにも関わらず3年後には4回目の巡幸を行います。

4回目の巡幸には息子の胡亥(こがい)と左丞相の李斯(りし)を連れて東南に向かいました。この時は、不老不死の薬を探させるなど指示を出しています。

 

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5回目の巡幸(紀元前210年)

始皇帝 死ぬ

 

この年には、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やし、儒家は生き埋めにした思想弾圧事件を行いました。

このことを焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)と呼びます。

さらに巨大宮殿・阿房宮(あぼうきゅう)も着工されます。

数々の改革を行ったが、5回目の巡幸で始皇帝は熱病にかかってしまい、巡幸中に崩御しました。

ここで始皇帝は波乱の50年の生涯を終えたのです。

 

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はじめての三国志代表おとぼけの独り言

スタッフおとぼけ

全人民を投下させ阿房宮や万里の長城を建設させたり、思想弾圧を行い

人民の恨みを買った始皇帝は、暴虐な君主として歴史に名を残しました。

しかし、秦の・政(せい)が500年以上にも渡る戦乱を勝ち取り6カ国を滅ぼし天下統一をしなければ、いまの中国は誕生しなかったはずです。

もし彼が統一をしなければ東アジアの広大な地域はヨーロッパのように複数の国にバラバラになっていたと言われています。

なぜなら、始皇帝は中華統一後、思想や、度量衡や通貨、また位取り記数法などを統一し、経済の一体化を図りました。

そして最も重要な政策に、漢字書体(文)の統一したことから中華は1つの大きな文明圏になったのも事実です。

ちなみに秦時代以降の皇帝は、誰ひとり巡幸を行っていません。

莫大な費用をかけて巡幸を行なうメリットがないのも理由の1つと言われています。

三国時代の曹丕や劉備、孫権も巡幸を行っていない理由が分かってきますね。

三国時代だけではなく、もっと前の時代を学ぶことにより三国志をもっと深く知ることができるので引き続き春秋戦国時代も取り上げていきます♪

 

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otoboke

数々のブレストと思いつきで場を散らかした後、権限委譲と言い放ち、kawauso編集長に丸投げし去っていく。インターネットの不特定多数無限大の可能性にロマンと情熱を捧げる「はじめての三国志」の創設者。創造的で自由な発想が称賛や批判を創発し、心をつかむコンテンツになると信じている。各メンバーのパーソナリティを尊重し、全員の得意分野を活かし、補完し合うチーム作りを目指している。

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