三国志に登場するのは、豪傑や知将ばかりではありません。その99・9%は、名も無い兵士達なのです。ある意味、その存在が無ければ物語が成り立たない兵士ですが、その実態は、輝かしい武将の陰に隠れて、あまり見えてきません。そこで、はじさんでは、三国志の兵士達の日常について書いてみます。
この記事の目次
兵士の給料はどうなっていたの?
兵士だって人間、食べなければ生きてはいけません。補給を断たれた軍隊があっという間に崩壊するように、これは、一日も怠る事の出来ない大問題でした。
張鵬一『晋令輯存』(三秦出版社)という本によると、三国時代の終わり頃の西晋の時代の西域に駐屯した兵には、一日に、六升の麦が支給されていたとあります。六升というと、10・8リットルになり多いというイメージですが、これは現在の基準の話で、当時の1升は現在の二合半にしかならず、六升と言っても、実際は1升五合という事になります。これは脱穀前の麦であり、実際に食べられる量はもっと少ない事になります。
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勤務した日数しか麦はもらえなかった・・
仮に、1升五合の半分が食べられたとして、8合位が実質支給となると、それでも個人の腹を膨らませるには充分な量です。ところが、ここには落とし穴があり、兵士は常雇いではなく、勤務日数制だったので、出動しない日は給料がありません。
辺境の警備兵ですから、異民族がやってきた時以外は、交代制だと考えると、月々の出動は15日位として、一日、4合が食べられるラインになります。成人男性の食事としては、そんなに多くもないですね。もしかすると、兵士の気分としては、食糧が乏しくなると、
「異民族、死人が出ない程度にカモーン」というものだったかも・・
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武器はどうだったのか?死んだり逃げた場合は?
一般の兵士の装備は自前だったようです。三国時代の兵士は、曹操(そうそう)が組織した青州兵の例に倣い、兵戸という制度で代々が戦争に従事する事が決められていました。逆に従軍する義務がない戸籍を民戸と言います。
兵戸は、家族で国から土地を貰って暮らしていますが、その中から、成人男性が兵士として割り当てを受けて戦地に出ていました。もし、兵戸の兵士が病死すると同じ家から別の成人男性が、代わりに出陣する決まりになっています。
そして、兵戸の兵が逃亡した場合、同じチームを組んでいる兵戸とその家族に捜索の義務がありもし、見つけ出せない場合には彼等が処罰されました。
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名誉の戦死を遂げた場合の特典は?
逆に戦場において華々しく戦死した場合には、なんらかの特典があったようです。合肥の戦いで張遼(ちょうりょう)が決死隊800名を募った時にも、「お前達が戦死した場合には、必ずそれぞれの家族に報いてやる」と約束するシーンがあります。それは、租税の免除だったり、兵役の免除だったり、多額の見舞金だったりしたのだと思います。
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臨時ボーナス 略奪
防衛する側の場合には、兵士達にはメリットは少ないですが、逆に侵略する場合には戦勝時に略奪というボーナスがありました。兵士の待遇は悪くいつも不満が溜まっていたので、指揮官は戦勝時の略奪は、士気の低下を防ぐ為に大目に見るというケースが大半だったようです。
もっとも、治安維持や、今後の戦略の拠点にする為に、略奪を禁止するケースもありましたが、あまり事例は多くありません。略奪は、今の価値観で考えると犯罪ですが、兵士の側から見れば「命懸けで働いて勝ったのだから敵の物を奪うのは当然」という考えもあったのだと思います。
三国志ライターkawausoの独り言
曹操の造り上げた兵戸制は、それまで金喰い虫だった兵士が自分で耕し、自分で戦うという事を可能にし戦争による歳入の大幅減を緩和するのに役立ちました。ところが、常に大軍を維持する事には役立ちますが、一方で兵戸の負担は大きく、国が乱れると、任務を放棄して逃げる兵が続出して、結局、お金で義勇兵を集めるというやり方に戻ったりします。
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