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信ってどんな人?キングダムの主人公は史実が少ない謎多き人物

2015年9月13日


 

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信 キングダム

 

熱血中国歴史漫画キングダムの主人公、信(しん)は、熱血、直情、直感型の武将として仲間達の助けを得ながら順調な出世を重ねています。漫画の中では、戦争孤児として他家の下僕という境遇から身を起した信ですが、歴史上の人物としての信の生涯には、とても謎が多いのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実際の信は生没年不詳

信 キングダム

 

信については、その出生階級も、何年に生まれたかも分かりません。これは信が無名で取るに足らない人物であるという意味ではなく、秦の戦国時代の記録については、後の始皇帝による焚書坑儒や、咸陽を陥れたの項羽の略奪と放火によって、それまで残っていた記録がほとんど消滅しているのです。

 

ただ、信の年齢は史記の王翦列伝によると、、秦將李信者年少壯勇とあります。紀元前225年頃の記述で、秦の李信という将軍は、若くて勇気があると書かれている事から当時すでに老将だった王翦(おうせん)よりはずっと若く、30代位だったのではないか?と思います。

 

嬴政(始皇帝)

 

そうだとすると、紀元前255年産まれで始皇帝よりは4つほど下、ほぼ同年代と考えていいかも知れません。

 

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信ばかりではなく秦の武将の記録は史記のみしかない・・

信 キングダム

これは、信に限らず、始皇帝の時代を生きた多くの秦武将の記録が、同時代からは失われ、少し時代が下った前漢の司馬遷(しばせん)が咸陽を訪れて古老から話を聴取した史記によっているのです。従って、信が戦争孤児であり他家の下僕であったのか?歴とした名門の家柄だったのか?庶民から這い上がった苦労人だったか?

それを断定する事は出来ません。

 

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信の手柄についての記述は?

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実は、信の記録は史記に記録された信と同時代を生きた大将軍、王翦列伝の中に、付属として記録されている分と、さらに後年の新唐書の記述が全てです。これは信が王翦と共に戦場にいた事によって記録が残ったという事で、もし、信が王翦と別行動を取っていたら記録はさらに少なかったかも知れません。以下は、史記の王翦列伝に見られる信の記述

 

兵士 朝まで三国志

 

・紀元前229年~紀元前228年、王翦が数十万の大軍を率いて趙と対峙している時、信は、趙の太原、雲中に進軍していた。

・紀元前226年、王翦と王賁は、紀元前227年の燕の太子丹が雇った暗殺者

 

荊軻

 

荊軻(けいか)による秦王政、暗殺未遂事件の報復として燕都・薊(けい)を攻略。

 

逃げる秦王政を追いかける荊軻

 

燕王喜(き)と太子丹(たん)を遼東に敗走させた。この際、李信は、約1000の兵を率いて燕軍を追撃し太子丹を討ち取った。

 

王翦

 

・紀元前225年、秦王政(始皇帝)は、楚を征服したいと思った。対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問したところが李信は、「20万」が必要だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。秦王は、王翦が年老いたと考え、李信の案を採用して侵攻を命じた。李信は総兵数20万を二つの部隊に分け李信は平輿(へいよ)で蒙恬(もうてん)は寝丘(しんきゅう)で楚軍に大勝した。

 

項燕

 

さらに、李信と蒙恬は、郢(てい)周辺を攻め、再び楚軍を破った。ところが城父(じょうほ)で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕(こうえん)率いる楚軍に奇襲され2カ所の塁壁を破られ7人の将校を失う大敗を喫した。

 

蒙武

 

そのため、王翦と交代させられた、翌年、王翦と蒙武(もうぶ)が60万の兵を率いて楚を攻め、楚王負芻(ふすう)を捕虜にし楚を滅亡させた。

 

王賁

 

・紀元前222年、王賁(おうほん)と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、これを滅ぼした。さらに、代(だい)を攻め、代王嘉(か)を捕え代を滅ぼした。

・紀元前221年、王賁と蒙恬と共に斉を攻め滅ぼした。

 

以上が史記による信の記録の全てです。出典ウィキペディア

 

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奇妙な奇妙な信、楚の項燕に敗れて全滅したのにお咎め無し

信 キングダム

 

さて、紀元前225年の記録では、秦王政(始皇帝)が信に20万の軍勢を与えて、楚を攻めさせ、序盤は勝っていますが、後半で項燕の軍に撃破されて、7人の将校を失い2箇所の塁壁を破られる大敗を喫した。

 

兵士と戦術

 

という事が記録されています、ベテランの王翦が60万の軍勢を要求したのに対して、自分は20万で充分と大見得を切って惨敗しているのです。本来なら、敗戦の責任を取り死罪、悪ければ一族皆殺しもあり得ます。秦の法は厳しく、敗戦を簡単に許さないからです。

 

桓騎に 敗北

 

実際に、紀元前234年に趙を攻めた桓騎は、趙の李牧(りぼく)に敗戦し、怒った政は桓騎(かんき)の一族を皆殺しにし、桓騎は燕に亡命しました。桓騎の一族は皆殺しにされ、信はお咎め無しとは何故でしょうか?

 

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推論、蒙恬や信は、始皇帝と特別な繋がりがあったのでは?

蒙恬

 

この楚相手の敗戦では、信ばかりでなく副官で参加した蒙恬も、お咎めなしという事になっています。ここで注目したいのは、蒙恬が祖父の代から秦に仕える名門の出身という点です。これは、全くの推論ですが、蒙恬と信は何らかの姻戚関係にあり、さらに、蒙恬の一族は、秦王政の後宮に一族の娘を入れていたのではないだろうか?と思えるのです。

 

「斉」の旗を持った兵士

 

理由としては、斉からの移住組である蒙家は、早い段階で秦王室と繋がりを持って、讒言などから身を守る必要があった。それゆえに、歴代の秦王の後宮に娘を送り込むのに熱心だった。そのように考えられなくもありません。しかも、その娘は政の子供を産んでいて、寵愛を受けていた。始皇帝は正室は置いていませんが、後宮には2~3000人の妾がいて公子と公女、合わせて20名以上の子供に恵まれています。

 

胡亥

 

始皇帝の子供については、はっきり名前が分かるのは長子の扶蘇(ふそ)と、末子の胡亥(こがい)、それに真ん中の将閭(しょうりょ)という人物と公子高(こう)という人物位です。

 

宦官の趙高(キングダム)

 

それ以外にも趙高(ちょうこう)の大粛清の前には大勢いたと思われるので、そこに、蒙恬の一族から入った妾がいて、子供を儲け、一定の発言力を持ち、楚の戦いで敗れた信と蒙恬を助命するようにしたのではないか?そのように考えられるのです。もちろん、これも何の資料的な裏付けもなく推測に過ぎませんが・・

 

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信の子孫はいるのか?

西遊記巻物 書物

 

このように記録的には王翦伝にしか表記がない信ですが、一方で、キングダムの時代より1200年も後に書かれた新唐書には、何故か、その子孫の事が細かく書かれています。新唐書の記録では、李信には二人の男子が産まれて長男を李超(りちょう)と言い、次男を李仲翔(りちゅうしょう)と言います。長男の李超は漢に仕えて大将軍になり魚陽太守となります。

 

李広

 

次男の李仲翔の子は、李伯考、(りはくこう)さらにその子が李尚(りしょう)で、次が前漢の飛将軍で異民族討伐の名将、李広(りこう)になります。新唐書によると、さらに李広から五胡十六国時代に西涼を起した漢族の武将李暠(りこう)に繋がりこの李暠は唐を建国した李淵(りえん)に繋がる事になっています。

 

弓矢を構える李広

 

しかし、前述の通り、信の記録は史記の王翦伝が一番古く、それ以外の記録は見つかっていません。もしかすると、信の一族が口伝で記録を伝え、それを新唐書が記録したという事かも知れませんが、李淵は漢族ではない鮮卑(せんぴ)系の人なので、ただ、同じ李姓の李信を自国の権威づけに利用した感じも否定できません。それに信や信の息子達が秦末の趙高の大粛清から楚漢の戦いに至るまでをどこでどうしていたのかもまるで記録がなく、突然に李超が漢の大将軍になる等辻褄が合わない部分も見受けられます。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

経歴が謎だらけの信は逆に、漫画の主人公としてはうってつけの人物です。これは、日本の剣豪、宮本武蔵にも言えるのですが、記録に乏しい事は、裏を返せば記録に無い部分では何をさせようが誰も文句を言えないという事だからです。

 

はじめての三国志編集長kawauso

 

キングダムの主人公が始皇帝なら奇抜な事はさせられませんが、よく経歴が分からない信なら、大胆に動かす事が出来ます。原泰久先生は、こうして虚実を織り交ぜて、魅力的な漫画を造っているといえるでしょう。

 

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