義兄弟関羽(かんう)を呉の呂蒙(りょもう)に殺された劉備(りゅうび)は、怒りに震えて荊州に攻め込みます。しかし、呉の蜀キラー陸遜(りくそん)の前に劉備は大敗、敗北のショックで病床に入った劉備は、西暦223年、波乱の生涯を閉じます。劉備の死後、そこには、冷え切った呉蜀の関係と蜀に攻め込まんと50万の大軍を起した魏の曹丕(そうひ)が残っていました。そこで命懸けで呉の孫権を説得し呉蜀同盟を再締結させた人物がいました。それが鄧芝(とうし)です。
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遅過ぎ、70過ぎたら大将軍になるだろういう予言
鄧芝(?~251)は字を伯苗(はくびょう)といい荊州南陽郡、新野に産まれました。若い頃に劉璋(りゅうしょう)が支配する益州に入りますが、そこで人相見の張裕が鄧芝の顔相を見てみると・・
「うーん、あんたは、70歳過ぎたら、大将軍そして侯に登るだろう」と135歳まで生きる的な出来が悪い占いアプリのような事を言われます。鄧芝は人材を好むと評判だった龐羲(ほうぎ)の元に身を寄せたのですが劉璋は劉備に敗れて政権交代、鄧芝はそのまま、劉備の家臣になります。郫の邸閣の督となった鄧芝に劉備がベタ惚れする鄧芝は、当時、ド田舎の郫(ひ)の邸閣(ていかく)の督(とく)でしたが、そこへたまたま君主の劉備がやってきていくらかの雑談を交わします。さすがは劉備で、僅かな雑談を交わす中でも鄧芝の非凡な才能を見抜き鄧芝を大抜擢、県令から広漢太守になって実績を挙げとうとう成都の尚書まで昇りつめてしまいます。
※尚書とは、皇帝への文書の授受を管理する仕事、公正で誠実な人が選ばれた。
あの占い師、クソアプリじゃなかったのか・・・
風雲急を告げる蜀、鄧芝は大任を引き受ける
劉備は、義弟関羽を殺された復讐から、孔明達重臣が止めるのも聴かず呉に攻め込み、夷陵の戦いで大敗し敗戦のショックから白帝城で病死します。蜀では後継ぎを劉禅(りゅうぜん)に決めたまではいいのですが、魏では曹丕が、この機を逃さず蜀を攻め滅ぼそうと50万の大軍を動員して向かってきました。孔明は劉備存命中は言い出せなかった蜀呉同盟の再締結を望み、鄧芝を呉への使者として立てます。鄧芝も孔明とは同じ考えであり命懸けの使者の仕事を受けました。
魏か蜀かグラグラする孫権(そんけん)
夷陵の戦いに勝ち、何とか滅亡を免れた孫権もまた悩んでいました。劉備が生きていた頃は仲直りを求めた彼ですが、二代目のボンクラ劉禅が相手では蜀と同盟を結んで意味があるのか考えあぐねていたのです。かといって陰険で性格が悪い曹丕に従えば、蜀を滅ぼした途端、
「次はお前だガッハッハ!死ね!」と言われかねないのです。
鄧芝を試す孫権
そこで孫権は、蜀の現状を見極める為に使者の鄧芝を試す事にします。はるばる蜀からやってきた鄧芝を孫権はわざと待たせて合わなかったのです。そこで鄧芝は手紙を差し出し、「蜀との同盟は我々ばかりではない呉にもメリットがあります」と力説します。そこで、孫権は渋々ながら逢う事にしました。