司馬懿(しばい)、字は仲達は言わずと知れた諸葛亮のライバル、そして魏を滅ぼした西晋の高祖「宣帝」です。
そうした立場のため正史『三国志』魏書に列伝はありません。他の人物の紀・伝に「司馬宣王」「宣王」「宣帝」という名で登場します。
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西晋の名称は後ほど東晋となる
なお西晋という名称は、その後の東晋と対になるものです。三国を統一した晋は、 皇族の争いに端を発した永嘉の乱で衰え、313年には匈奴による国家「前趙」に洛陽・長安を攻められ滅亡します。この直後に晋の皇族や遺臣が江南の建康(建業から改名)で興したのが「東晋」です。
どのような記録が残るの?
面白いのが、武帝(曹操)紀には全く登場しない点です。父の司馬防と曹操のエピソードは載っていますが、司馬懿の事は全く書かれていない。
では「四友」と称され仲が良かったと伝わる文帝(曹丕)紀ではどうでしょう?
こちらでもほとんど登場しません。まあ文帝紀はその大部分が、後漢からの禅譲の正当性を表す事に費やされており
(あの部分は細かく読むのがとても苦行です…)、
他には魏王朝の制度や政治、呉・蜀との関係の事ばかり書かれていますので…。
司馬懿が登場するのは撫軍大将軍への任命と、曹丕の死の直前に曹叡の補佐を託された事だけです。
そして明帝(曹叡)紀になるとがぜん記述が多くなります。呉の襄陽侵攻を阻止、孟達の謀反討伐、大将軍への昇進(ちなみに司馬懿には丞相、相国、三公という官僚トップに就いた記録はありません)、
蜀の北伐への対応、太傅の任命、遼東の公孫淵の討伐。曹爽との権力争いについても簡潔にですが記されています。
魏書でこの3名以外のところで記述を探そうとしましたが、曹操の代の人物伝には見当たらず、陳羣など同世代の官僚や、曹爽などライバル達の伝に事跡がある程度。お兄さんの司馬朗の伝がありますが、こちらには「長兄が司馬朗、次男が司馬懿」という事しか書かれていないのです。
裴松之の註も含めて、もっと読み込めばどこかに居るはず…そして今度は蜀書や呉書でも探してみます…
司馬懿について纏められるのは『晋書』や『晋紀』
曹魏(魏という国は中国史で何回か登場するので、三国時代のはこう呼びます)が滅亡し西晋が興ってから400年経った唐の時代、7世紀半ばになりやっと正史『晋書』が編纂されました。この400年の間には、裴松之が三国志註を作成(こちらは429年の宋の時代)時に引用した様々な歴史書、書物が編纂されました。
晋書ではこれらの、魏や西晋に憚る必要が無くなってから成立したものや、伝説や伝聞、伝承を纏めたものまで、史家が関わっていない為に玉石混交な史料が使用されました。このため史書としての評価は低く、東晋の干宝が編纂した『晋紀』(敦煌文書に一部残存)など他の書物も共に参照しないとならない内容だそうです。
そのおかげでか、エピソードの多さは三国志随一
正史のものに加え、出仕前の仮病、曹操に警戒されていた様子、奥さん張春華とのケンカ、首が180度回る(これは直接的に受け取ってはいけないそうですが)、よだれまで垂らすボケ老人の真似、アラ?という感じの詩、遼東での成年男子虐殺…司馬懿について書こうとした際、ホントにどうやって纏めよう?と悩んでしまいました。
『三国志演義』での司馬懿の見せ場といえば、五丈原での孔明との対峙や曹爽との権力争いですが、脚色されなくともじゅうぶん物語の主役が張れるのではないでしょうか。ともあれ、『三国志』では列伝が無いので、司馬懿の足跡を辿ろうとすると全体を読んでいかなければならないのは確かですが、そうした『三国志』の読み方も面白いのではないでしょうか。
ちょっとした歴史家気分が味わえるかもしれませんね。
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