曹操に警戒された司馬懿の凄さはどこにあるのか?

2018年7月12日


 

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司馬懿

 

晋を建国した司馬炎(しばえん)によって宣帝と諡された司馬懿(しばい)は、三国志の影の主役といってもいいでしょう。

諸葛孔明(しょかつこうめい)の好敵手として登場し、トップクラスの知略の持ち主と考えられている司馬懿。

その凄さはいったいどこにあるのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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あの曹操に警戒された

不満を持つ曹操

 

司馬懿は名門の出身で、

「司馬八達」と呼ばれた八人兄弟の中でも最も秀でていたといわれています

最初、司空となった曹操(そうそう)に召し出されますが、病気を理由に辞退しました。

 

未だ袁紹(えんしょう)も健在で、河北の脅威が残っている状況でしたので、

司馬懿としては曹操の未来に不安を感じたのかもしれません。

 

しびれをきらせた曹操に仕えるようになったのは、

曹操が丞相となった208年のことになります。

 

前年に袁氏は完全に滅びていました。

曹操は仕官を断るようならば殺せと使者に命じ、強引に司馬懿を招聘しています。

曹操は7年越しで、ようやく司馬懿を家臣に加えることができたわけです

 

しかし太子の曹丕(そうひ)に対しては、

「司馬懿はいつまでも家臣でいるような男ではない」と警告しています。

司馬懿を使いこなせるのは、俺だけだぞってことですね。

 

あの関羽を倒す策を進言

あの関羽を倒す策を進言

 

司馬懿が注目を集めることになるのは、関羽(かんう)が北進し、

曹操の領土に侵攻してきた219年のことになります。

 

曹仁(そうじん)の守る樊城は包囲され、名将・于禁(うきん)は捕虜となり、龐徳(ほうとく)は処刑されました。

曹操は慌てて遷都(せんと)すら考えたほどだったのです。

 

司馬懿はこの時、孫権(そんけん)に関羽の背後を襲わせることを曹操に献策します。

この策は見事にはまり、関羽は孫権に敗北して処刑され、曹操は危機を回避することができたのです。

司馬懿の策がなければ、関羽は荊州北部を占拠し、許都に攻め込んでいたかもしれません。

 

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あの孟達を奇襲して討ち倒す

孟達を奇襲する司馬懿

 

劉備(りゅうび)亡き後、諸葛孔明が先頭に立って北伐が始まりますが、

最大のチャンスはなんといっても228年の第1次北伐です。

 

諸葛孔明は漢中から侵攻するだけでなく、新城太守である孟達(もうたつ)の内応の約束も取り付けていました。

これが成功したら、魏の防備は手薄になり、蜀は一気に魏領に攻め込めたはずでした。

 

これを阻止したのも司馬懿です。

司馬懿は一ヶ月かかる1200里の道のりをわずか八日で駆け抜け、

電光石火の攻撃で、準備の整っていない孟達を討ち果たしました。

こうして荊州への道を閉ざされた諸葛孔明は、漢中から北進する選択しかとれなくなったのです。

 

あの諸葛孔明の侵攻を食い止める

諸葛孔明の侵攻を食い止める司馬懿

 

さらに司馬懿は、天才軍師・諸葛孔明の侵攻を守りに徹して食い止めます。

ちなみに「三国志演義」では劉備に代わる主役・諸葛孔明に局地戦で何度も敗北していますが、

正史では持久戦を選んで勝利しています(追撃して張郃(ちょうこう)が討たれていますが)。

 

諸葛孔明と対峙した際も、反乱を起こした公孫淵(こうそんえん)に対しても、

大将軍となった曹爽(そうそう)との政争時も、常に辛抱強くチャンスが訪れるのを待っています。

 

女性の衣服を送られて挑発される時もありました。

警戒を解くために、ボケた老人を演じきったこともありました。

「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」の我慢強さこそが、司馬懿の真骨頂ではないでしょうか。

   

三国志ライターろひもとの独り言

三国志ライターろひもとの独り言

 

孟達を奇襲した際の司馬懿の行軍は、まさに「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」の「中国大返し」。

公孫淵を倒した後の虐殺行為は、まさに「織田信長(おだのぶなが)」の「比叡山焼き討ち」。

そしてひたすら辛抱強くチャンスを待つ姿勢は、「徳川家康(とくがわいえやす)」に通じます。

 

なんと、司馬懿は、日本の戦国時代の三英雄の要素を兼ね備えているわけです。

それは凄い!それはさすがに曹操も警戒する!諸葛孔明が勝てなくても仕方ない!

 

でもなぜか、司馬懿って人気があまりないんですよね。

凄さが伝わっていないからなのか、あまりにも凄すぎるからなのか……

これだけ凄いのに、人気がないってことも凄いのではないでしょうか。

 

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