魏の郝昭(かくしょう)を皆さんご存知でしょうか。
彼は蜀の丞相・諸葛孔明と戦をして勝ったことのある将軍です。
魏の武将の中で孔明に勝った戦歴を持つ数少ない武将です。
今回は「孔明キラー」である郝昭をご紹介していきます。
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たたき上げの武将・郝昭
郝昭は若い時に曹操(そうそう)へ仕えます。
常に先陣を切って突入する勇猛果敢な人物で、曹操と共に各地を転戦し、手柄を地道に立てていきます。
郝昭は地道に努力して、少しずつ実績を上げ、ついに将軍の位の一番下ですが、雑号将軍の位に任命されました。
その後、曹丕(そうひ)の時代になり、彼は河西一帯(涼州)の守備を任される事になります。
郝昭は涼州で反乱を起こした賊軍を討伐し、涼州の反乱の火種を鎮火します。
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孔明キラーとして名を馳せた「陳倉城の攻防戦」
曹真は前年、蜀の北伐軍を街亭の戦いで打ち破り、退却させます。
彼は次に孔明率いる蜀軍が攻撃を仕掛けてくる場所を陳倉城と予測し、郝昭を陳倉城へ赴かせるのです。
郝昭は1000人前後の兵力で陳倉城に入城した後、陳倉城の改築や増築などを行い、鉄壁の城と化します。
その後、曹真(そうしん)の予測通り、数万の軍勢を率いて蜀軍が襲来し、陳倉城を幾重にも包囲するのです。
まず孔明は郝昭の友達に「彼を説得しなさい」と命じられます。
しかし郝昭は友達の降伏勧告を見事に拒否します。
孔明は郝昭が降伏勧告を断ったと聞くと攻撃を開始します。
まず井蘭(せいらん=やぐらのように高く木をくみ上げ、やぐらの上から兵士が弓矢を打つ兵器)や雲梯(はしご付きの木製戦車)、衝車(城門を打ち破る突撃用の戦車)などを繰り出し、猛攻を開始します。郝昭は孔明がこれらの攻城兵器を用いてくるのは想定済みで、井蘭には城壁を高く築かせて、敵の弓矢を届かないように対応し、衝車には城壁の上から、石を落として、戦車を破壊します。
そして雲梯は木材で出来ているので、大量の火矢を打ち込んで燃やします。
孔明はこれらの攻城兵器が破壊されると新たな方法で攻撃を開始するのです。
さてここで恒例の三国志クイズ
はじめての三国志クイズ
孔明は新たな攻撃方法は一体何でしょう。
次の三択からお答えください
1投石攻撃
2モグラのように地中から穴を掘って攻撃
3孔明開発・蜀ロボによるパンチ
さぁお答えください
・・・・・・・
・・・・・
・・・・
・・・
・・
正解は2の地中から穴を掘って攻撃です。
孔明は穴を掘って陳倉城の城内に侵入
孔明は地中から穴を掘って陳倉城の城内に侵入しようとします。
しかし郝昭は城内から穴を掘って行く事で、孔明が作った穴を埋めることに成功します。
郝昭は20日以上蜀軍の猛攻を受けますが、すべては防ぎ孔明を退却させます。
郝昭の鉄壁の防御の前になすすべなく退却する事になります。
郝昭は陳倉城を見事に守り抜き、魏の皇帝である曹叡からいっぱい褒められ、褒美と爵位を下賜されることになるのです。
しかし郝昭は陳倉攻防戦の疲れが出たのかその後病に倒れます。
彼は死の間際、息子に「俺は武器を作るために、墓に使われている木々を使って武器を大量に生産した事がある。だから俺が死んだら棺桶の中には何もいれず、葬儀も質素に行え。そして埋葬する際はお前の好きな場所に俺を葬ればよい。」と言い残し、亡くなったそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
孔明は陳倉城で敗れた後、郝昭が生きている間は陳倉城を攻める事を攻める事をしなかったそうです。
孔明は郝昭が亡くなった事を知るとすぐさま北伐の軍勢を行い、陳倉城を攻撃します。
郝昭が作り上げた鉄壁の陳倉城は、すぐに陥落し、北伐の拠点となるのです。
守備をする側の「絶対に城を守り抜く」と言う強い意志がないと、どんなに防御を厚くしても結局の所、すぐに陥落してしまう事になってしまうのですね。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪
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