袁紹(えんしょう)の配下には顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)以外にも優秀な人材が多くそろっていました。しかし、官渡の戦いで袁紹軍が敗北すると、袁家の優秀な人材達は曹操に寝返ります。そんな中、ある人物が、衰えていく袁家を必死になって支えます。この人物こそ審配(しんぱい)です。
この記事の目次
冀州の牧・韓馥に仕える
審配は冀州の牧である韓馥(かんふく)に仕えます。この時の同僚には、魏の名将として後世に名を残した張郃(ちょうこう)や袁紹軍きっての名軍師田豊(でんほう)・沮授(そじゅ)らが居ました。審配は彼らと共に冀州の牧である韓馥に仕えますが、ある事件がきっかけで袁紹に仕える事になります。
はじめての三国志クイズ
審配はなぜ袁紹に仕える事になったのでしょう
1韓馥が突然消えた
2韓馥が袁紹に脅迫され、冀州の牧を袁紹にゆずった
3韓馥が嫁に逃げられ自殺
さぁお答えください
正解は2番です。
袁紹は董卓連合の解散後、韓馥を脅します。名家の脅しにビビった韓馥は、冀州から逃亡。冀州が主不在の空白地帯になります。袁紹は空白地帯になった冀州の主として君臨します。
不甲斐ない主を見捨て、袁紹に仕える
審配は袁紹の脅しに負けて、一人で逃げた不甲斐ない主韓馥の後を追わず袁紹に仕える事にします。彼は袁紹に仕えるとすぐに治中別駕に任命。彼はなんの実績も挙げないうちから役職をもらった事に感激し、袁紹に忠節を尽くしていこうと密かに決意します。
名門袁家の仁義なき戦い1
官渡の戦いは曹操の勝利に終わり、袁紹は河北に退却します。その後袁紹は、病を発病し亡くなってしまいます。袁紹には三人の子供が居ました。長男・袁譚(えんたん)。次男袁煕(えんき)。三男袁尚(えんしょう)です。袁紹は後継者を決めずに死んだため、長男袁譚と三男袁尚が袁家の後継ぎを巡って、兄弟争いを開始。袁譚がまず袁尚を攻めます。袁尚も負けじと袁譚を攻め、袁氏兄弟の仁義なき戦いが勃発します。次男は袁家の跡目を継ぐ争いに参加せず、日和見していました。
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審配はイケメンである袁尚の味方に付く
袁家の跡目を継ぐ、兄弟争いが勃発すると家臣らも二つに割れます。審配は生前袁紹が三男でイケメンの袁尚を可愛がっていた事を知っていたため、三男袁尚の味方に付きます。官渡の戦いで勢いづいた曹操は、袁家の兄弟争いを利用して、袁譚と袁尚に攻撃を仕掛けます。審配は袁尚軍を率いて曹操と戦いますが敗れ、鄴城に逃げ込みます。長男である袁譚も曹操軍に敗れ、本拠地・南皮城に逃げ帰ります。
仁義なき戦い2
曹操が退くと袁譚と袁尚の仁義なき戦いが再開します。すぐに袁尚は軍を動かし、袁譚に猛攻をかけます。袁譚は袁尚の軍勢に大敗北し、青州の平原に逃げます。袁譚は平原に逃げ込んだ後、父を討った敵である曹操に助けを求めます。
「いつでもかかってこい曹操!」by審配
曹操は袁譚からの救援依頼を受け、袁尚の本拠地である鄴城を包囲します。審配は袁尚から鄴城の守備を任されていました。彼は曹操軍が鄴城を包囲しても、防備の備えはばっちりで周り「いつでもかかってこい曹操!」と強気の姿勢を崩しませんでした。
寝返りが相次ぐも、必死に鄴城で戦う
審配は曹操軍が来ると鄴城に籠り、迎撃を開始。曹操軍の兵士が鄴城に登ってくると、石を落とし、弓矢を雨のように打ち放ちます。審配率いる軍勢が優勢であるのに突如、将軍二人が鄴城の城門を開け、曹操軍を城内に引き入れます。審配は曹操軍に寝返った将軍をすぐに討伐。城内に侵入した曹操軍を全滅させます。
曹操は鄴城の攻撃を止め、水攻めへ
曹操は審配の頑強な抵抗を見て攻撃を中止。包囲を解いて近くを流れる河を決壊させて水攻めを行います。水攻めは成功し、鄴城は水の中に漂う古城となってしまいます。審配は鄴城が水没したことで、城内の兵士達が食べる兵糧が無くなってしまい、危機的状況に陥ります。しかし審配は諦めず周りの将軍達に「袁尚様が必ず帰ってくる。帰ってきたら挟み撃ちにして曹操軍を打ち払ってやろう」と強気の姿勢を崩しませんでした。
袁尚との挟撃作戦は失敗に終わる
袁尚は兄袁譚を討伐するため軍を進めていましたが、鄴城の危機的状況を知り、急いで鄴城へ向かいます。鄴城の近辺に着くと、すぐに曹操軍に攻撃を開始します。審配は城壁から袁尚軍が曹操軍に攻撃を開始したのを見て、出陣準備を開始。審配は水に浸っていない場所から城門を開いて曹操軍に攻撃を仕掛けようとすると、兵士が審配に「殿。袁尚様は曹操軍に敗北し、逃走しております」と伝えてきます。彼は急いで城壁に登ると、袁尚軍は敗北し、曹操軍の厳しい追撃を受けておりました。
耐え続けるがついに陥落
審配は袁尚の軍勢が敗北した所を城壁から見て、出陣を止めます。袁尚軍の敗北を城壁から見ていた兵士や将軍達は、意気消沈します。審配の兄の息子である審榮は鄴城の東門を守っていましたが、袁尚軍が敗北するのを見て、戦う気力を無くします。そしてついに東門を開け、城内に曹操軍を引き込みます。戦う気力を無くしていた兵士達や将軍は抵抗せず、鄴城は陥落。審配は曹操軍に捕まり、曹操が居る本陣へ連れて行かれます。
曹操も認めた忠義の臣・審配
曹操は縄で縛られた審配が目の前に来ると「城門を開けたのは誰か知っているかい。」と質問します。審配は「知らん」と曹操を睨み付けます。曹操は「君の兄貴の子である審榮(しんえい)が開けてくれたんだ」と伝えます。すると審配は「あの小僧が開けたのか。こうなる前に殺しておけばよかった」と怒りを隠さず曹操に言います。さらに曹操は主に固い忠誠を見せた審配を自らの配下に加えようと、色々な質問をします。しかし審配は「早く処断しなされ。」と急かします。先に曹操に降った袁紹の臣が「奴を斬らねば後々禍をもたらすでしょう」と審配の処断を執拗に求めて来ます。
曹操は悩みに悩んだ末、審配を家臣に加える事を諦め、処断するのです。審配は処断される際「袁尚様は北に居るから、俺の首を北向きにしてから討て」と死刑を執行する役人に強い口調で命令します。彼は最後の最後まで袁尚に忠誠を尽くした、武将でありました。
三国志ライター黒田廉の独り言
袁紹の配下であった張郃や高覧、その他大勢の部下達は袁紹の性格に嫌気がさして、曹操に降ります。そんな中、審配は袁家を支えるため、必死に曹操軍と戦います。袁紹が亡くなった後も袁家を見捨てず、三国志の魏・蜀・呉の武将以外での忠義の将は審配だと私は思います。今回のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまた初めての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~