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しかし孔明が上手だった縮地(しゅくち)の術・・
ですが孔明は慌てません、余裕綽々で姜維と魏延を鹵城に向かわせ
自分の車は、司馬懿の軍勢に向かって突き進みます。
司馬懿「しめた!孔明を捕えよ、これで戦は終わりだ!」
魏軍は喜び勇んで孔明の車に殺到しますが、孔明の車は、
途中で向きを変えて、山の左の間道に入っていきます。
ところが、それを魏軍が追おうとした瞬間、
今、左の間道に隠れた孔明の車が今度は数キロ離れた、
右側の山の間道から出てきたのです。
司馬懿「うぬぬ!何をしている、右側の山だ追えー!」
魏軍は、再び、わーっと右側の孔明に殺到しますが、
また捕まえる直前に孔明は右側の山の間道に隠れてしまいます。
すると今度は、北の山の間道から、孔明の車が出てきたのです。
司馬懿「うぬぬ、、どうなっているのだ、あやつはワープでも
できるのか?ええい、何でもいい、とにかく捕まえろ!」
こうして、魏軍と孔明の車は日没まで、いたちごっこを繰り返します。
もちろん、その間に、魏延と姜維は、麦を収穫し終えて、
祁山に引き返していたのでした。
縮地の法のタネあかし
もちろん、いくら孔明でも場所をワープなど出来ません。
これは、孔明と似たような背格好の人を二人用意して、
同じような扮装をさせて車に乗せ、いかにも、孔明がワープして、
場所を移動しているように見せかけたトリックだったのです。
これは三国志演義のフィクションで、もちろん事実ではありませんが、
魏の軍勢がたった一台の孔明の車を必死に追いかけている様子は、
とても滑稽で面白いですね。
司馬懿、名誉挽回と麦打ちの時を狙うが・・
孔明におちょくられた司馬懿は、蜀軍が麦打ちしている時を狙い
奇襲を掛けようとしますが、これは孔明に見抜かれていました。
そして、姜維、魏延、馬岱(ばたい)を伏兵にして置いた孔明の計略に
司馬懿はまんまと引っ掛かり、大敗を喫してしまうのです。
司馬懿「くそっ、もうよい、持久戦だ、持久戦に持ち込むぞ!」
司馬懿は、再び、ハリネズミのように身を堅くして持久戦に入ります。
挑発しても動かない司馬懿に蜀軍の補給はまた厳しくなっていきます。
李厳のデマで蜀軍は撤退する羽目に・・
それでも蜀軍は善戦し、魏の救援軍を打ち破るなど勝利を重ねます。
ところが、そんな時に、補給を担当していた李厳(りげん)より、
衝撃的な手紙が孔明に届けられます。
「呉が密かに魏と結んで挟み撃ちにしようとしています。
急いで、陣をたたんで引き上げるべきです」
李厳からの手紙を読んだ、孔明は想像もしていない事態に慌てます。
しかし、これが事実なら、ぐずぐずしている間に、蜀軍は魏と呉に
挟まれて全滅してしまいます。
孔明は涙を呑んで、撤退を決意し、慎重な退却戦を敢行、
魏の重臣、張郃(ちょうこう)を撃退して戦死させる手柄を上げます。
ですが、漢中まで戻った孔明を、今度は劉禅(りゅうぜん)の特使として
費禕(ひい)が迎えていました。
費禕「李厳と申すものが、丞相は魏と結んでいる。
撤退しようとしているのは、そのためなので捕えてしまうべきと
成都に手紙を送りました、帝は真偽を確かめる為に私を遣わしたのです」
これで、孔明はようやく、一連の事態が全て李厳のデマだった
という事に気がついて愕然とします。
孔明「おのれ、李厳、、、私の足を引っ張りおって・・・」
孔明は、珍しく怒り心頭、即座に李厳を捕えると、尋問しました。
李厳は、厳しい尋問の結果、
「補給路が険しすぎて、補給が滞ったので孔明に処罰される事を恐れ、
ウソをついて、孔明を撤退させ、さらにそのウソを覆い隠そうと
成都にまで、孔明と魏が秘密同盟を結んでいるので撤退した
とデマを流した」と白状しました。
孔明は李厳の官職を剥ぎ取って庶民に落としてしまいます。
三国志ライターkawausoの独り言
さて、史実では、第四次北伐は、231年2月から開始され、
同年6月まで4カ月も続きました。
それだけ、孔明にとっても正念場の戦いだったのでしょう。
しかし、食糧補給を任された李厳(当時は改名して李平)が、
折からの長雨で補給がおぼつかないと部下を派遣して告げた所、
孔明は戦争を断念して退却を始めてしまいます。
李厳と孔明の間で、ニュアンスの違いがあったのか、、
李厳は、孔明が撤退するとは思わず、戻ってきた孔明を見て、
「どうして戻ってきたのです?」と撤退を孔明のせいにして
しまうような発言をします。
それを怪しく思った孔明が李厳の手紙を調べると、
成都の劉禅には、「孔明の撤退は偽装工作です」などと書いて
自分の罪を取り繕う風だったので、怒った孔明は、
李厳を追求して、罪を自白させ庶民に落としています。
実は、この時、魏は魏で、華陽国志によると、
「時宣王等糧亦盡」と司馬懿も兵糧が尽きそうになるなど、
かなり危ない状況でした。
もし、李厳がもう少し頑張っていたら、
魏軍の方が大ピンチに陥ったかも知れません。
惜しきかな、蜀は連携ミスからチャンスを失います、、
そして、北伐は五丈原の戦いへと進んでいくのです。
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