魏の曹休(そうきゅう)が石亭の戦いで呉に敗北した隙を突いた
第二次北伐ですが、名将、郝昭(かくしょう)が守る陳倉城の守りの前に
兵糧不足が生じて撤退します。
孔明(こうめい)は責任を負う形で二階級降格の人事を自らに課します。
しかし、第3次北伐では一兵も損なわず、武都と陰平を落として、
その手柄で、孔明は丞相に返り咲きました。
この記事の目次
迫る第四次北伐、しかし二つの問題が・・
孔明は、息つく暇もなく、第四次北伐の準備に取り掛かりますが、
その頃の蜀には、戦争継続を難しくする二つの難問がありました。
その第一は、どんどんいなくなる人材の枯渇の問題です。
西暦229年、最後の五虎将軍、趙雲(ちょううん)が死去します。
また、張飛(ちょうひ)の息子、張苞(ちょうほう)も第三次北伐で、
破傷風にかかり死にました。
期待をかけていた馬謖(ばしょく)も街亭のミスで処刑しました。
姜維(きょうい)など、次の世代もいるにはいますが、まだ経験不足です。
それは、本来なら仕事を分業して、負担を減らしたい孔明に
さらなる負担を掛ける事に繋がります。
もう一つの困難、補給力の問題
もう一つの問題は、さらに切実でした。
蜀軍が地形が険しい秦嶺山脈を超えるのに補給が追いつかないのです。
陳倉城だって、食糧さえ十分にあれば包囲を続けて落ちる城だったのに、
それが不足した為に泣く泣く撤退したようなものでした。
実際に宿敵の司馬懿(しばい)は蜀軍の補給の脆弱さを見抜いていて、
積極的な攻勢を掛けず戦争を長引かせて、補給切れを待つ
持久戦に切り替えてしまっていた程です。
孔明、補給の問題を現地調達で切り抜ける
孔明は、悩んだ末、補給を全て成都から運ぶのはなく、
麦の刈り入れが始まる4月に北伐の時期をずらして行う事に決します。
これにより敵地から食糧を得る事で、補給問題を解決しようとしたのです。
西暦231年、2月、孔明は4回目の北伐の陣頭に立ちます。
次の狙いは、祁山(きざん)、このポイントは、北の涼州と
蜀の通路を確保する上で非常に重要でした。
祁山を占拠した蜀軍に司馬懿が対峙する
蜀軍が祁山を攻め落とす事は、すでに司馬懿の中で織り込みずみでした。
この祁山を得ないと、孔明が期待する涼州の異民族の援軍も、
得る事が出来ないからです。
司馬懿は祁山にやってくると、何の動きもみせず待機しています。
ガッチリ守り、蜀軍の補給が尽きるのを見計らい襲撃するつもりなのです。
なんて、嫌な性格なんでしょう、司馬懿は・・
孔明、補給を助ける為に鹵城に向かうが・・
魏と蜀軍は対峙したまま、虚しく時間ばかりが流れます。
すると、当然、蜀軍の補給は苦しくなってきました。
普通なら、ここで退却ですが、孔明はここで予定通り、
鹵(ろ)城に麦を刈り取る為に密かに軍を移動します。
しかし、ここでジャーン!ジャーン!と銅鑼が鳴り響きます。
なんと司馬懿は、孔明が鹵城の麦を狙う事を見越して、
兵を配置していたのです。
この洞察力の深さには、孔明も舌を巻いてしまいます。
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