三国志ではあまり知られていないマイナーな武将が数多く存在します。
今回紹介する蜀の文学者として知られていた郤正もその一人です。
彼は蜀に仕えてからは宮廷に仕えて政権に参与することになるのですが、彼が活躍したのは蜀が滅んだ後のことでした。
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この記事の目次
父は魏に降って離れ離れになる
郤正は元々蜀の人間ではなく、祖父が益州の刺史であったことがきっかけで益州にやってきます。
しかし祖父は悪いことをして捕まってしまいます。
その後父は蜀に入ってきた劉備に仕え孟達(もうたつ)の部下として活躍していましたが、彼は関羽の死後魏に下ってしまいます。
父も孟達と共に魏に降り、そのまま魏に残ってしまいました。
そして母は新しい旦那を受け入れ郤正もともに生活しておりましたが、父と何かにつけて喧嘩を繰り広げてしまうことが原因で、家を飛び出して一人暮らしを始めます。
学問に打ち込む毎日
郤正は一人暮らしを始めると父が残した書物を全て自分の家に持ってきて、学問に身を入れます。彼は来る日も来る日も学問に励み20歳を過ぎた頃に蜀の宮廷からお呼びがかかって、仕えることになります。
宮廷に仕えることになった後も仕事が終わると同僚と酒を飲みに行くのではなく、まっすぐに家に帰ってきて勉学に勤しみます。
彼が最も力を入れて学んでいたのは文学で、前漢の文学者としてその名を轟かせた司馬相如(しばそうじょ)や後漢の大文学者である蔡邕(さいよう)などの優れた文学者の文章を読んで、独学で勉学に励んでいきます。
勉学気狂いであったことが幸い
郤正は宮廷の地位にあまり興味がなく出世して贅沢な暮らしをしたり、美女を自分の周りに囲んだりなどの欲望が薄く、新しい書物や文学書などを手に入れて勉学ができればそれで満足するような人でありました。
黄皓は蜀の政治的実権を握るとやりたい放題蜀の政治を動かしていき、自らのやり方に反対する者は片っ端から左遷や爵位の降格などを行い、独裁的な政治を行っておりました。
こうして蜀の政治家達は官位の降格や左遷、黄皓に皇帝劉禅へ讒言されることを恐れて、何も言えなくなってしまいます。そんな中郤正は、自分の仕事以外の事に興味がなく家に帰ったらすぐに学問を始めてしまう学問キチガイが幸いして、黄皓から睨まれることなく平穏な生活を保っておりました。
しかし彼の人生を大きく変える自体が間近に迫っておりました。
魏の蜀征伐軍がやって来る
魏は蜀を滅ぼすために大軍を鍾会(しょうかい)に与えて進軍させます。
大将軍であった姜維(きょうい)は魏軍を迎撃するために剣閣(けんかく)に籠ります。
しかし鄧艾(とうがい)率いる別働隊が蜀の内部に侵入し、防備が施されていない各城を陥落させて成都へ近づいてきます。
劉禅の決意
劉禅は鄧艾の軍勢が蜀へ侵入してきたことを知ると南方か永安へ逃げて、魏軍に交戦する意思を持っておりましたが、譙周(しょうしゅう)が魏へ降伏するベしとの意見を進言したことがきっかけで魏へ降伏。
こうして蜀は滅亡することになります。
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洛陽へ移動
劉禅は降伏すると馬車に乗せられて洛陽へ移動することになります。
この時成都では鍾会が姜維とともに魏に対して反乱を起こし、城内にいる魏軍が反乱軍鎮圧のために戦闘を行っており、成都城内は大混乱に陥っておりました。
この反乱鎮圧の戦いの中、劉禅の皇太子で将来有望を見込まれていた劉璿(りゅうせん)がなくなってしまいます。
このように成都城は大混乱であった為、劉禅の洛陽行きは大した準備をすることなく行くことになり、彼についてきたのもは郤正と中級役人一人のみでした。
こうして見送者がいないまま洛陽へと行くことになります。
劉禅が舐められないようしなければならない
郤正(げきせい)は洛陽に向かう車の中で、魏の群臣達から皇帝であった劉禅(りゅうぜん)が馬鹿にされて、惨めな目にあわないようにし彼らから舐められるようなことがあってはならないと心の中で決意を固く秘めます。
そして洛陽へ着いてから彼らに宿舎があてがわられ、優遇されることになります。
司馬昭の宴会に呼ばれる
司馬昭(しばしょう)は降伏してきた元蜀の皇帝である劉禅をもてなすため宴席を用意。
彼はこの宴席に蜀の音楽隊を連れてこさせて、蜀の宮殿でも流れていたであろう音楽を奏でさせます。
故郷である蜀の音楽を聞いて劉禅がどのような反応をするのか試すために、このような催し物を用意。
司馬昭は当日の劉禅の反応を楽しみにします。
そして当日司馬昭は劉禅が宴席に入ってくると蜀の音楽隊に命じて音楽を奏でさせます。
すると・・・
蜀の音楽隊を聞いて劉禅は・・・
劉禅は席に着くとすぐに故郷である蜀の音楽が耳に聞こえてきます。
しかし彼は亡国となった蜀の音楽を聞いても顔色一つ変えずにおり、酒を飲み食事をし始めます。
司馬昭は劉禅に対して「あなたの耳には故郷である蜀の音楽が聞こえていると思いますが、なんとも思いませんか。」と訪ねます。
劉禅は司馬昭の問いかけに対して「聞いておりますが、いつも聞いていたのでどうもおもいませんな」とそっけない態度を取って食事をしておりました。
この答えを聞いた司馬昭は大いに興味を削がれてしまい、宴会の席に長くはとどまる事をしませんでした。
劉禅に助言
郤正は宴会から帰ってきた劉禅からこの話を聞いてすぐに劉禅の元へ行って「劉禅様。あのような返答は以後しないでください。
もしまた司馬昭から『蜀を失って悲しくないですか』と聞かれたら、すぐにあなたは『父上のお墓が蜀にありますので、一日といえども思い出さない日はありません。』と答えてください」とアドバイスを行います。
劉禅は「そうかわかった。」と大きく頷き、その場を去っていきます。
ポンコツ劉禅郤正からもらったアドバイスをそのまま使う
劉禅は再度司馬昭から呼ばれて宴会に赴く機会ができます。
彼は郤正から教えてもらったセリフを再度口の中で軽く復唱した後、司馬昭開催の宴会場へ入ります。
司馬昭は再び劉禅に「蜀がなくなって数ヶ月が経ちますが、あなたは悲しくないですか」と聞かれます。
すると劉禅は待ってましたと言わんばかりに郤正から教えてもらったセリフをそのままんま口に出して司馬昭への答えとします。
この郤正から教えてもらったセリフをきいた司馬昭は大いに笑い「劉禅殿。その言葉は郤正殿から教えてもらった言葉ではないですかな」と口にします。
劉禅は驚き「あいや。晋王様はなんでも知っているのですね」とびっくりします。
この劉禅のポンコツ加減を見た宴会の人々は大いに笑い始めます。このような話が「漢晋春秋」と言われる書物に記載されており、
劉禅がどの程度ポンコツであったかを表すエピソードとなっております。しかし郤正がアドバイスを行っていなければ、またとんちんかんな受け答えをして晋の諸将からなめられていたのではないかと考えられます。
しかしこの話以外には劉禅がポンコツであった振る舞いを晋に降伏した時に行っておらず、郤正が劉禅に色々とアドバイスを行っていたことが伺えます。その証拠に司馬昭は郤正を忠義を貫いた文官であることをほめたたえて、彼を蜀の巴西太守に任命しております。
これは郤正が蜀滅亡後も劉禅に仕えて、しっかりと彼を支えていたことを知っていた司馬昭が彼に与えたご褒美ではないかと考えられないでしょうか。
劉禅を支え続けてきた忠臣
郤正は晋へ降伏してから数十年ポンコツ皇帝である劉禅(りゅうぜん)に色々とアドバイスを行い、晋の諸将や司馬昭から舐められないように努めてきました。
しかし劉禅を支えてきた疲れが出たのでしょうか。彼は病に倒れてそのまま帰らぬ人になってしまいます。
劉禅は自分を支えてくれた郤正が亡くなると「私が皇帝であった蜀の時に、彼を見出していれば必ず何かしら報いていたものを」といって悲しんだそうです。
こうして蜀の最後の忠臣である郤正が亡くなってしまいます。
姜維を批判し続けた蜀の群臣
蜀の末期の頃では国内に居る文官や知識層から宦官である黄皓(こうこう)のイメージは、最悪でした。
その原因は彼が蜀の政治を牛耳って好き放題動かしていたことが原因でした。また蜀の軍人達から宦官黄皓と同じくらいイメージが悪かったのは大将軍である姜維でした。
その原因は蜀の人民や兵隊を休ませることなく連続して、魏へ攻撃を仕掛けていたのが原因です。
蜀の重鎮であった廖化(りょうか)は姜維の事を「魏の将軍達よりも能力が低いのに、連年北伐を行ってはいつか大変なことになるぞ」と批判しておりました。
他の将軍達も廖化と同じような意見を持っており、彼らはこぞって姜維を批判的な目で見ておりました。
正史三国志の作者陳寿も姜維に批判的
陳寿(ちんじゅ)は正史三国志において姜維を「連年国力を無視して魏へ攻撃を行ったせいで蜀は滅亡を早めることになった。」と厳しい評価を下しております。
また『晋陽集(しんようしゅう)』や『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』などを残した晋の歴史家である孫盛(そんせい)も姜維に非常に厳しく「蜀の大将軍である姜維は蜀軍を率いて、攻守ともに任されていながら魏軍を領内に入れる愚かなことをしている。
また蜀滅亡後に鍾会に優遇されておきながら、彼を裏切ろうと考えていたのは恩を仇で返す行為ではないか。」と評価を下しております。
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蜀の重鎮達が姜維を批判している中、高評価を下す
郤正は晋へ降った後劉禅を支えて行きますが、彼は晋のある人から「蜀の大将軍である姜維は蜀の将軍達から非常に嫌われていたそうだが、君はどう思っていたのかね。」と尋ねられます。
彼は「私は姜維大将軍は素晴らしい逸材だと思っている。」と答えます。
すると質問者は「どうしてだい」と再び訪ねます。
この質問に郤正は「なぜならば蜀の軍事のトップに立っていたにも関わらず、豪華な暮らしをしないで質素倹約に努め功績を挙げて得た褒賞などは将兵に配っていた為、家には余分な蓄えはなかったらしい。
この行動は人に範を示そうと行ったことで人気取りで行ったことでないことは、蜀の軍人達からの人気のなさでわかるであろう。
このように人気を得ようとしないでこのような行いをする姜維将軍は、人格者として優れていたのではないか。」と述べます。蜀に仕えて間近で姜維の行いを見ていた者からの発言だけあり、非常に重みのある言葉を聞いた質問者は彼の言葉を聞いて納得します。
このように姜維を批判せずしっかりと彼の行いを見ていたのは、蜀の群臣達の中では郤正ただひとりではないのでしょうか。
三国志ライター黒田廉の独り言
郤正は蜀の滅亡する前において姜維にただひとり高評価を与えていた人物です。
この郤正の姜維の評価を見た裴松之(はいしょうし)も姜維の評価を改めた一人です。
彼が公平で客観的に物事を見ることが出来た人物であるからこそ、ポンコツ皇帝・劉禅が晋の国内で舐められずに余生を楽しむことできた郤正の功績はもう少し高く知名度があってもいいのではないかと思います。
「今回のマイナーな三国志の武将のお話はこれでおしまいにゃ次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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