三国志演義では、魔術的な兵法ばかりでなく言葉アタックにより、
王朗(おうろう)や曹真(そうしん)、周瑜(しゅうゆ)を憤死に追い込んでいる
三国志のスーパーエスパー諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)。
しかし、それは演義だけではなく、時折、史実でも発揮されている事実を
はじめての三国志はキャッチしました。
自分が制御できなさそうな武将は、さり気なく左遷してしまう、
孔明の真っ黒な讒言メモリーを紹介致しましょう。
この記事の目次
孔明、讒言メモリー1 プライド高く自分勝手、魏延みたい! 彭羕
最初の孔明の被害者は、彭羕永年(ほうよう・えいねん)です。
身長は八尺で、タダモノではない面相をしていて、性格は驕りたかぶり
人をぞんざいに扱う事が多いというタイプでした。
はい、この辺りで若干、彭羕は魏延(ぎえん)にダブります。
孔明が嫌いそうですね、彼は真面目で従順な人が好きですから・・
彭羕は益州広漢郡の人で、秦宓(しんふく)が許靖(きょせい)に推挙したため、
劉璋時代に益州の書佐になりますが、驕りたかぶる性格が出てしまい、
人に恨まれて讒言を受け、髠刑に処され頭を剃られた上に首枷を嵌められます。
役人人生のスタートから、罪人とは確かに桁外れです。
その後、劉備(りゅうび)が入蜀を果たし北上すると、
チャンスと見た彭羕は、劉備軍の軍師、龐統(ほうとう)を
一面識もないのに尋ねてきて、いきなり龐統のベッドに座り込んでしまいます。
龐統は、「先客がいるので、それが済んでから話をしよう」と言い
しばらく別客と雑談してから彭羕の所に行くと、
「腹が減りました、飯を出してくだされ」と傲慢に言い、
さらに図々しくも、二泊もして龐統と語りあいます。
その厚かましさに龐統は惚れこみ、かつ有能でもあったので、
法正(ほうせい)に紹介、法正は昔から彭羕を知っていたので異存は無く、
そのまま劉備に紹介し、劉備も彭羕の才能を認めて重く扱います。
劉備は、しばしば彭羕に命じて軍事を任せ、諸将に指示を出させますが、
すべて、命じた通りに完璧にこなしたので、成都を陥落させた後には、
彭羕を抜擢して治中従事(じちゅう・じゅうじ)に任命しました。
真っ黒孔明のチクチク讒言開始・・
彭羕は、ちょっと前まで平民だったのが、一躍重臣になったので
態度は自然にデカくなり、劉備に重んじられていると皆に待遇を自慢します。
それを舌うちして苦々しく見ていたのが、荊州からやってきた孔明です。
外面では彭羕に大人対応ですが、内心では悪感情を抱いていました。
だって、誇り高い、態度デカイ、図々しい、スタンドプレーに走る。
これ全部、孔明が嫌いな自分勝手な天才肌の人物です。
もう、魏延みたいじゃないですか・・
孔明は劉備と密かに面談しては、何度もチクチクと彭羕の悪口を言います。
「臣が危惧しますに・・彭羕は野心が大きすぎます。
今に待遇に満足できなくなり秩序を乱しましょう、今の内に
手を打っておかないと大変な事になりますよ」
最初は、それは考え過ぎだろうと思っていた劉備ですが、
尊敬する孔明が、よもや個人の好き嫌いで讒言しようとは思わず
よくよく彭羕を観察していると、なんだか、だんだん、そんな気が・・(笑)
こうして、彭羕は江陽太守に左遷されました。
孔明讒言メモリー2 俺の時代になったら制御不能 劉封
劉封(りゅうほう)とは、劉禅が生まれる前に迎えた劉備の養子です。
本来は長沙郡の羅侯(らこう)県の寇(こう)氏の子で母方は長沙劉氏の出身でした。
長沙劉氏は名門で、劉備の先祖の中山靖王劉勝(りゅうしょう)は、
この長沙劉氏の祖の劉発(りゅうはつ)の異母弟ですし、
後漢の光武帝(こうぶてい)や、更始帝(こうしてい)もこの系統です。
元を辿れば、劉備よりも名門で、或いは劉備いざと言う時には
劉封を頼りに長沙でも拠点にするつもりだったかも知れません。
劉備が入蜀して、葭萌(かぼう)より還って劉璋を攻めるに及んだ時には、
劉封は二十歳余り、武芸無双で覇気は常人を上回り、兵を率いて
諸葛亮や張飛(ちょうひ)らと与に遡行西上しあちこちで勝利を納めています。
そう劉封は意外にも猛将のタイプだったようなのです。
(なんかこいつ、剛胆だし、血の気が多いし、まるで魏延みたいだな・・)
劉封の側で従いながら、孔明の中のワル孔明が囁きました。
劉備は、劉封の手柄を讃えて益州が定まると、劉封を副軍中郎将にしました。
その後、劉備は、劉封を孟達と共に出陣させ上庸を陥れさせます。
しかし、その直後、関羽(かんう)が樊城と襄陽を包囲している時に
両者に援軍要請したのを、劉封と孟達は、上庸の治安が回復していない事を
理由に断ります。
まさか関羽が討たれるとは思わなかったようですが、予想に反して、
関羽は呉に討たれて、劉備は憤慨し、劉封と孟達を恨みます。
不利を悟った孟達は、劉封と不仲になった事もあり魏に亡命します。
劉封は残りますが、孟達は、夏侯尚(かこうしょう)、徐晃(じょこう)を伴い
上庸城を攻め、劉封に寝返るように手紙で勧めますが、劉封はこれを拒否。
しかし、劉封は味方の離反もあり支えきれず成都に逃亡しました。
真っ黒孔明のエグるような讒言炸裂・・
劉封が成都に帰還すると、劉備は関羽を見殺しにした事と
上庸を失陥した事を、かなりクドクドと詰り、劉封を獄に降します。
そして、ここで孔明の讒言がエグるようにHITします。
孔明「臣が危惧しますに、劉封は性格が勇猛果敢です。
時代が皇太子様の世になれば、とても制御不能でしょう、、
ここは思い切ったご決断を・・」
劉備は我が子を守る為という孔明の讒言に先導され、
遂に劉封に死を賜ってしまうのです。
しかし、よくよく考えてみれば、劉禅の時代になっても、
実際の政務を執るのは孔明です。
つまりは、俺、剛胆なヤツ、扱いづらくて嫌なんだよね・・
という孔明の私情が、さも劉禅を心配したかのような形で
優先されているのですね。
結構ドン引きに真っ黒くないか?孔明・・
三国志ライターkawausoの独り言
前述の彭羕ですが、左遷が決まると、劉備に不満を持ち、
馬超(ばちょう)と酒を飲んでいる時に、劉備を貶し
「あの老いぼれには俺の価値が分らん」と暴言を吐いて、
さらに謀反して、益州を手にいれようと馬超に持ちかけた事で
馬超が後難を恐れ、彭羕を縛りあげて、成都に送っています。
そこで彭羕は孔明に、自分が軽はずみだった事を認め、
自分の罪は万死に値すると認めつつも、
「劉備へは感謝している、それだけは信じてくれ」と言いながら
処刑されました。
うーーーん、私には、彭羕は、ただ口が悪いだけで、
謀反など起こすヤツには見えないんですが、
本当に、孔明が言うように危険なヤツだったんですかねェ・・
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