劉備(りゅうび)や孫権(そんけん)も生涯には、色々危ない目にあっていますが、
それでも曹操(そうそう)に比較すればまだまだ幸運な方だと言えるでしょう。
赤壁にしろ、官渡にしろ、潼関(どうかん)の戦いにしろ、毎度危ない目にあい、
いつもギリギリで助かっているのが曹操なのです。
そんな、不運に慣れている曹操でも、あまりのショックで
絶望詩人と化した壮絶な戦いがありました。
それが、これから紹介する兗(えん)州争奪戦です。
この記事の目次
曹操が戻ってみると、そこは猛烈アウェーだった・・
拠点が無かった曹操がやっと手に入れた領地が兗州でした。
そりゃあ長い戦乱で随分、荒れ果てていましたし、
曹操は、いまだ、袁紹(えんしょう)のパシリのような扱いでしたが
やっと十三州ある州の一つを手に入れたと曹操の胸は踊りました。
しかし、西暦194年、二度目の徐州荒らしから荀彧の急報を受けて、
急いで引き返して見ると事態は一変していました。
なんと80以上ある兗州の城市が、東阿(とうあ)、甄(けん)、
笵(はん)を除き、オセロが引っくり返ったように、
呂布(りょふ)と陳宮(ちんきゅう)に乗っ取られていたのです。
注:東阿は当初、中立でしたが、すぐに曹操側に立つので、
ここでは曹操の味方としてカウントします。
極秘裏に実行されたクーデターが、東阿、甄、笵にも迫る・・
陳宮と呂布のタッグによるクーデター軍の魔手は曹操の留守を預かる、
濮陽(ぼくよう)を奇襲で落した呂布と張邈(ちょうばく)は、
何食わぬ顔をして甄城にやってきます。
張邈「呂将軍に徐州攻略の援護をしていただける事になりました。
これから向かいます、ひいては食糧を融通して頂きたい」
もちろん嘘です、これで城門を荀彧が開いていたら、
曹操は一巻の終わりでした。
荀彧は、曹操から何の連絡も無い事に胡散臭さを感じ、
城門を堅く閉ざし、東郡から夏侯惇(かこうとん)を呼び戻して対処します。
夏侯惇は、密偵を放ち、張邈、呂布に加担してクーデターを
煽っていた住民、二十名余りを処刑しました。
これにより甄城の動揺はようやく静まりますが、すでに、
荀彧や夏侯惇の預かり知らない所でクーデター計画は、
甄城にまで及んでいた事に、曹操軍の幕僚は戦慄します。
陳宮は、兗州の全ての城市を陥落させ、曹操が戻る拠点を奪い、
曹操を戦わずして抹殺しようと企んでいたのです。
荀彧、程昱の活躍で三城は維持される!
クーデターがバレたと知った呂布と張邈は、甄を諦め、
一度濮陽に戻りますが、それとは別に陳宮が東阿を攻略しようと
別働隊を進めていました。
東阿の県令は棗祇(そうし)でしたが城を堅く守り、
また程昱が手配して、黄河を南下しようとする陳宮に備えて
船着き場の防備を厚くしたので陳宮は東阿の攻略を断念します。
しかし、クーデター部隊は、もう一隊存在しました。
呂布の配下の氾嶷(はんぎょく)が、笵城の県令、
靳允(きんいん)の所へ向かっていたのです。
さらに悪い事には、呂布は靳允の妻子一族を人質に取っていました。
このままでは、笵が落ちると感じた程昱は靳允を説得し、
妻子一族を諦めさせ、さらに伏兵を配置して氾嶷を斬り捨てます。
これは曹操にとっては大きな勝利でしたが、程昱は靳允の妻子を
見殺しにさせたという事で儒者達から長い間批判されます。
荀彧、袁術の火事場泥棒を見破り、計略でこれを阻止する。
その頃、甄には豫州刺史の郭貢(かくこう)という人物が尋ねてきます。
実は、この郭貢は袁術の影響下にあり、陳宮と張邈のクーデターが
どの程度、順調に行っているか見てこいという使命を受けていました。
夏侯惇は、郭貢と会おうとする荀彧に
「すでに郭貢が陳宮とグルなら、あなたは拘束される危険だ!」
と会見に猛反対しますが、荀彧は落ち着き払い・・
「いえ、郭貢はクーデター派に付くか?中立でいるか?
態度を決めかねているから様子を見にきたのでしょう。
ここは、郭貢を利用して、我が軍の有利に持ち込むべきです」
と言い、クーデター対策に追われているなどとは、
微塵も感じさせない堂々たる振る舞いをしました。
郭貢はすっかり騙され、報告を受けた袁術もクーデターは不発と考え、
火事場泥棒的にクーデターに加担する事を中止します。
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曹操、怒りの猛反撃も、イナゴの被害で停戦する
夏侯惇、程昱、荀彧の活躍で三城を維持した兗州に曹操が帰還します。
余りの状況の悪さに絶望詩人になりかけますが、
そこは曹操、すぐに兵を纏めて、呂布と張邈の本拠地、濮陽に攻めかかります。
しかし、戦上手の呂布も懸命に戦い、曹操は計略にかかり、
一度は呂布軍に捕まりながら、機知で切り抜けたり、腕に火傷を負うような
重傷を受けながら一進一退の激戦を100日繰り広げます。
ところが両者の戦争に決着をつけたのは、意外にもイナゴの襲来でした。
イナゴは農作物を食い荒らし、都市は大飢饉に見舞われ、
呂布、曹操とも食糧確保に追われ戦争どころではなくなります。
曹操は甄に撤退し、呂布は乗氏(じょうし)城に移動しますが、
そこで李進(りしん)という人物に撃破され、さらに南の山陽郡へとのがれて行きました。
袁紹からの子分になれコールも、程昱の喝で拒絶
曹操は、相変わらず兵糧不足に苦しめられていました。
呂布が山陽郡に去っても、兗州の県令、大守はクーデター側についたままです。
泣きたくなっている時にやってきたのが、袁紹の手紙でした。
袁紹「食糧を援助してやるから、お前の妻子を鄴に送ってこいや」
当時は、有力な将軍は自分の主君の本拠地に家族を預けて、
人質とし裏切らないという証にしていました。
つまり、袁紹は援助してやるから子分に戻れと言ったのです。
弱気になっていた曹操は、その申し出を受けようとします。
それを聞いた程昱は、笵から戻ってきて叱りました。
程昱「あなたは、自分の才能が袁紹ごときに劣ると考えているのか?
また、一度、覇王を目指した人間が、志を曲げて人の配下になるのに、
なんの屈辱も感じないのか?」
曹操はこの言葉に思いとどまり、袁紹の援助を撥ねつけます。
食糧不足は変わらず深刻でしたが、その時、東阿の県令の棗祇が、
大量の食糧を蓄えている事が分りました。
このような場合に備えて棗祇は備蓄を強化していたのです。
曹操は、この食糧を使って兵力を整え、まずは定陶(ていとう)を攻撃します。
呂布は曹操の攻勢を知って東緍(とうびん)からやってきますが、
曹操はこちらも撃破し定陶を陥落させました。
勢いに乗る曹操は、さらに鉅野(きょや)も攻撃、ここにも呂布は、
援軍を派遣しますが、呂布軍が到着する前に鉅野は陥落して、
呂布は虚しく引き返します。
曹操、陶謙の死を知って、再び徐州攻略を思い付くが・・
曹操が軍勢を乘氏に駐屯させている頃、ここで大飢饉に遭遇します。
同じ頃、徐州では陶謙が病死して、劉備が徐州牧になっていました。
それを知った曹操、なんと呂布はそっちのけで徐州への再侵攻を提案します。
しかし、それは荀彧が押しとどめました。
荀彧「殿に取っての兗州は、戦争で荒れ果てていても拠って立つべき拠点です。
かつて、漢の高祖(こうそ)は関中を領有したからこそ、
度々項羽(こうう)の為に敗北しても、関中から補給を受けて軍を整えました。
つまり、殿に取っての兗州は、高祖の関中と同じものです。
それを今、徐州に色気を出して攻め込めば、
我が軍は貴重な兵力を裂かねばならなくなります。
徐州はここ数年で戦慣れしており、また殿を激しく恨んでおります。
主が代わった位でその結束は崩れないでしょう。
もしも徐州が取れず、その上、呂布が息を吹き返したら、
殿は徐州も兗州をも失う虻蜂取らずになってしまいます」
曹操は荀彧の助言を入れて、徐州侵攻を取りやめました。
こうしてみると、堅実で手堅いイメージの曹操は後年のモノで、
この頃は劉備並みに節操がない所があったんですね。
呂布、ガラ空きの乘氏に攻め込んでくるが曹操の奇計炸裂
同じ頃、呂布は陳宮の提案を受けて、兵士が穀物を刈り取りに行き
ほとんどガラ空きの乘氏に攻め込んできます。
1000名弱の兵しか残していない曹操は窮地に陥りますが
奇策を用い、城内の女に鎧を着せて城壁に立たせて、
兵士に見せかけ、備えを堅くして守っているフリをします。
呂布は、陳宮の進言と違い、乘氏に大勢兵がいる事を怪しく思い、
一時、退却し千載一遇の好機を逃します。
ここで呂布が陳宮を信じていたら、曹操の首は飛んでいたでしょう。
翌日、呂布は、思いなおして、再び乘氏を攻めますが、
その時には乘氏の兵は全て戻ってきていました。
曹操は、前日と同じように女を武装させて城壁を守らせ、
その背後に大量の兵を伏せておきます。
呂布はそうとも知らず、乘氏の守りは前日と同じと思いこみ
曹操の伏兵の逆襲に遭い軍を壊滅させてしまいました。
この勢いを得て、曹操は呂布と陳宮が立て籠もる東緍を攻撃して
これを陥落させる事に成功しました。
曹操、二年間の激闘で兗州を奪い返す
東緍を失った、呂布と陳宮は、兗州の拠点を全て失い、
戦争の混乱に紛れ徐州へと落ち延びていきました。
張邈も、それ以前に袁術の援護を求め、弟の張超(ちょうちょう)に
雍丘(ようきゅう)を守らせ豫州へと落ち延びていきますが、
途中で部下に殺されて無残な最期を遂げます。
呂布と陳宮が去った曹操は、各地の城市を次々と降伏させつつ、
雍丘を大軍で包囲、張超は善戦しますが持ちこたえられず、
城は陥落し、三族は皆殺しとなりました。
こうして二年間に及んだ兗州争奪戦は、曹操の勝利に終わり、
間も無く献帝を迎えた曹操の力はこの頃から日増しに強くなっていきます。
三国志ライターkawausoの独り言
曹操の兗州争奪戦、大変な戦いであるとはよく聞きますが、
ビジュアルで見ると、曹操に取りほとんど絶望的な序盤である事が分ります。
しかし、迷い、悩みつつも曹操が領土奪還を諦めなかった事。
そして、曹操を信じて助言を繰り返した程昱、荀彧、夏侯惇、
さらに食糧を補給して勝利の決定打を提供した棗祇の尽力で
曹操は不可能に思えた兗州奪還を成し遂げたのです。
まさに友情(忠義)、努力、勝利!なんだか曹操軍は、
この頃は、かなり週刊少年ジ○ンプ的な感じですね。
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