【シミルボン】趙雲の記述は盛られていた!イケメン趙雲を生み出した別伝

2016年11月11日


 

シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」専用オリジナルコンテンツです。

五虎大将軍 趙雲

 

趙雲子龍(ちょううん・しりゅう)は、日本でも一二を争う

人気が高い、三国志のキャラクターです。

まず、長身でありイケメン、しかも信義に厚く、どんな窮地でも任務を遂行し

いつでも謙虚で、かつ言うべき時は相手を気にせず堂々と発言する。

曹操と違い、女癖が悪い事もなく、長坂の戦いでのイメージから、

騎兵の姿をしているのも、趙雲のカッコよさを増幅していると言えるでしょう。

 

ところが、趙雲のカッコよさは、事実ではなく、本当は後から

盛られたものだという事を皆さまはご存じでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史三国志の落とし穴、裴松之の拾ったネタ満載

三国志演技と三国志正史005

 

三国志には、正史と演義の二種類があり、正史が真実を写している書物です。

確かに、それはそうなのですが、正史とて全く嘘がないわけではありません。

最初に陳寿(ちんじゅ)が書いた三国志は、とても簡潔で面白味が少ないものでした。

なので、百年以上後に、裴松之(はいしょうし)という人が、あちこちから

三国志の文献を拾いあげて、付け足したのが、今の正史三国志なのです。

 

つまり、正史三国志には、陳寿が書いた部分と裴松之が書いた部分があり

趙雲に関しては、裴松之の補則に問題があったのです。

 



とても簡潔な陳寿が書いた趙雲像、、

蜀の産まれ 陳寿

 

では、論より証拠、裴松之の補則を外した陳寿の記述だけの

趙雲伝を見てみましょう。

 

趙雲は字を子龍と言い、常山郡真定県の人、

初め公孫瓚(こうそんさん)の配下だったが西暦200年頃、

劉備の主騎(旗本)になった。

 

趙雲 長坂の戦い

 

208年の長坂の戦いで趙雲は乱軍の中から劉禅(りゅうぜん)

母の甘(かん)夫人を救出した。

劉備が劉璋(りゅうしょう)を攻撃中、彼と張飛(ちょうひ)

諸葛亮(しょかつりょう)に率いられて西上、所在の県を平定。

223年、劉禅が即位すると、征南将軍に昇進、永昌亭侯に封じられ、

後に鎮東将軍に遷った。

 

228年、春、祁山に向かう孔明本軍の囮になって、

趙雲は魏将曹真(そうしん)の大軍と箕谷(きこく)で敗れたが、

よく敗兵を纏めて固守し大敗には至らなかった。

帰還後、鎮東将軍に降格された。

西暦229年に亡くなり、261年に順平侯と追諡された。

 

※参考文献 三国志それからの系譜 坂口和澄

 

裴松之が付け足した、趙雲別伝は、趙雲の子孫が書いた!

趙雲

 

さて、いかがでしょう?陳寿の部分だけを読んでも趙雲のイメージは

なんとなーく、薄ぼんやりしていませんか?

 

もちろん、長坂の戦いで甘夫人と劉禅を救う所などは趙雲ですが、

我々がイメージする義理堅く、謙虚な人柄や言うべきはズバッと言う、

剛腹の趙雲イメージは出てきませんね。

 

この陳寿の趙雲像を、三国志を盛り、面白くせよと命じられた

裴松之は趙雲別伝という補則ネタで補います。

というより、趙雲の補則ネタは趙雲の子孫が書いた趙雲別伝だけで、

他には何の補則も採用されてはいません。

 

つまり、現在の私達が抱いている趙雲のイメージは、

実は趙雲の子孫が書いた別伝のイメージなのです。

 

関連記事:【あの人の子孫は今】趙雲の子孫っているの?趙氏(ちょうし)について

関連記事:これは不公平!趙雲が五虎将軍でドンケツの理由とは?格差の現実を徹底分析!

 

趙雲別伝の趙雲イメージとは・・

趙雲 子龍

 

では、趙雲別伝には、どのような事が書いてあるのでしょうか?

別伝の癖に本伝より長いので(笑)かいつまんで説明しますと・・

 

① 身の丈、八尺で堂々した容貌をしていた。

公孫瓚と袁紹(えんしょう)の戦いでは、多くの人が袁紹に付く中で公孫瓚に付いた。

気を良くした公孫瓚が冗談半分で、その理由を尋ねると、

「私は仁政が敷かれそうな側についただけ

袁紹が嫌いだとか、あなたが好きだとかそういう理由ではない」

このように趙雲は容貌が立派で言葉に飾りが無かった。

 

②劉備に厚く信頼され、母の死を契機に公孫瓚の下を離れると

「母の喪に服して数年後に戻ります、決して裏切らない」

劉備に約束して、その通りに戻った。

感心した劉備は、張飛や関羽にそうしたように同じベッドで眠った。

 

③ 長坂の戦いで、趙雲が逃亡したと言いふらす人間がいた、

それを聞いた劉備は手戟を投げつけて「子龍はそんな男ではない!」

と断言して信頼を示した。

 

④ 趙雲は桂陽太守として元の太守の趙範(ちょうはん)と交代した。

趙範は兄の未亡人で美女の樊(はん)氏を妻に勧めたが、

同姓不婚の原則を持ちだし趙雲は承知しなかった。

 

⑤ 博望の戦いで趙雲は同郷の幼馴染、夏侯蘭(かこうらん)を捕虜にし

有能だからと劉備に推挙して彼を軍正(憲兵)にした。

しかし、癒着していると思われるからと、自分の側には置こうとしなかった。

このように趙雲は清廉で公正であった。

 

⑥ 益州を平定すると、劉備は早速、戦利品として諸将に

益州の土地を分配しようとするが、

「戦乱で苦労した百姓から土地や建物を取り上げてはいけない」

趙雲が諫言し劉備はそれに従った。

 

⑦ 劉備が関羽の仇討ちと称して、呉を攻めようとした時に、

「我々が戦うべきは魏であって呉ではありません」と理路整然と諫言。

劉備を止められなかったが剛直ぶりを示した。

 

⑧ 戦争が上手で、魏軍を深追いした黄忠(こうちゅう)を救ったり、

曹操の大軍を地形を利用して誘い込み、伏兵で撃破するなど機動力を活かした

戦い方をしたので、虎威将軍と呼ばれた。

 

いかがでしょうか、、この①~⑧までを付け足すと、もろに、

私達がイメージする趙雲像が生み出されてしまいます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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