三国志を知らなくても「諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)」の名前は
聞いたことがあるという話はよく耳にします。
歴史上「最強の軍師」と呼ぶ声も多く聞かれます。
あまりに有名な英雄ですが、諸葛亮孔明は天下を獲ることに成功したわけではありません。
その寸前まで駒を進めたわけでもないのです。
にも係わらず、ここまで軍師としての評価が高いのはなぜでしょうか。
前編・後編の2回に分けて考察していきたいと思います。
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圧倒的な不利な状況からの飛躍
諸葛亮孔明は「三国志演義」の主役ともいえる劉備(りゅうび)の晩年の軍師です。
劉備が有名な「三顧の礼」で諸葛亮孔明を自陣に迎えたのは、
西暦207年(建安十二年)の12月のことだと伝わっています。
ちょうど曹操が袁氏を滅ぼして河北を完全に制覇したときです。
当時の劉備は荊州の牧である劉表の客将同然の身の上でした。
この差は、現代で考えると、曹操が世界の経済の中心で国際力豊かな最強企業の
「トヨタの社長」であるのに対して、
劉備は日本の有名企業に属しながら独立もしていない「部長クラス」ほどのものです。
世間に対する影響力を含め、比較するのも切なくなるような大きな差がありました。
諸葛亮孔明はこの圧倒的な不利な状況において劉備の軍師となり、
彼の飛躍に大きく貢献していくことになるのです。
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三国志演義の諸葛亮孔明像
三国志演義の諸葛亮孔明の活躍があまりに神がかっているので、
そのイメージがどうしても先行してしまいがちです。
独自の脚色も多く、ほとんどスーパーマン同様に描かれています。
「天下三分の計」に始まり、「孫権との同盟交渉を成功」、
「赤壁の戦いで南屏山に壇を築き東南の風を呼ぶ」「益州の占領」「漢中の占領」
「南征の成功」「北伐の準備と実現」とその功績はいくらでも出てきます。
果たして、そのひとつひとつが本当に諸葛亮孔明の進言や功績によるものなのかの実証はさておき、
劉備・蜀国は曹操に立ち向かえる力をつけていくのです。
正直、そこまで成り上がっていくだけでも驚異的なことだといえます。
特に日本人は昔から弱者に対して応援する風潮があります。
源義経の「判官びいき」は日本人の特性を表しています。
この挽回劇が読者を魅了したことはいうまでもありません。
諸葛亮孔明の軍事能力
軍事能力というとどこで量るのか難しい話です。
戦場で兵を率いて戦う力も軍事能力のひとつでしょうし、
大国を相手に戦えるだけの準備を進めていくことも立派な軍事能力といえます。
また民衆や将兵を鼓舞する力も軍事能力としては必須のものです。
諸葛亮孔明は軍師ですから、剣を抜いて敵将の首を獲るという活躍をするわけではありません。
直接兵を率いて敵陣を叩き潰すような行動も取りません。
あくまでも作戦の指揮を執るのです。直接動くのは将軍たちです。
そうなると、諸葛亮孔明の軍事能力を考えるうえで、二つの点に注目をすべきです。
①軍事作戦がどこまで功を奏したか
②大国と互角に戦えるだけの準備をすることができたのか
ここの分析が大切になってきます。
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軍事作戦について
赤壁の戦いのMVPはなんといっても呉の周瑜(しゅうゆ)です。
ここでの諸葛亮孔明の活躍は希薄です。
孫権(そんけん)との同盟も、周瑜の決戦の覚悟があったからこその成立です。
益州への進出は、龐統(ほうとう)や法正(ほうせい)の活躍です。
漢中への進出も法正がMVPでしょう。
そう考えると諸葛亮孔明の活躍を世に知らしめたのは南征の成功なのではないでしょうか。
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蜀の人口問題を改善させた孔明
異民族の王・孟獲(もうかく)を「七縦七擒」で心腹させたのは大きな功績です。
益州の豪族である雍闓は呉の交趾太守・士燮を通じて呉に内通し、
孟獲と組んで反乱を起こしていました。
これを制することで呉の表面上の同盟も守られ、蜀は国力を増強できたのです。
この時の蜀の国力は魏に比べてあまりに貧弱でした。
人口を比較すると魏が400万人ほどだったのに対して蜀は90万人ほどです。
国土も狭いうえに国の基盤となる人間の数も圧倒的に劣っていました。
魏領に攻め込み魏を滅ぼすなど夢のまた夢物語です。
しかし、南征に成功したことで一万あまりの兵を「飛校」と称して蜀軍に編入させています。
南征によって蜀はやや人口問題を改善させたのです。
ちなみにさきほど紹介した蜀の人口は蜀が滅んだときの人口ですから、
南征当時はもっと少なかったと予想されます。
これにより諸葛亮孔明の「野戦の指揮能力の高さ」は証明されつつ、
北伐に備えた準備を進めることができるようになったのです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
次回は引き続き諸葛亮孔明の軍事能力について北伐中心に考えていきたいと思います。
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